ハイリー・センシティブ・パーソン



最近、玄米にハマっています。
白米は柔らかすぎて食べた気がしない上、そのせいで食べすぎてしまう傾向にあります。
玄米だと適度な歯ごたえに満足感があり、しかも白米だと失われてしまうミネラルがしっかりと残っています。
好みがはっきりと分かれる食材なので、複数の人で共用する炊飯器だと、どうしても白米を選ばざるを得ません。
そこへいくと、ほっとハウスでお昼を作る時には毎回一人分だけ炊いて食べているので、玄米を楽しみたい僕には好都合です。

子どもの頃は、玄米が苦手だったのですけどね…。
これもやっぱり歳のせい??


     * * *


先日、ネット上で興味深い記事を見つけました。
【日本人の5人に1人が該当する「HSP」って?】
https://ddnavi.com/news/396370/a/
とても気になったので、自分なりに調べてみたことや考えたことを、ちょこっと簡単にまとめてみました。

生まれつき、高度な感覚処理感受性を持っている人のことを、HSP(Highly Sensitive Person)と呼びます。
全人口のうち、5人に1人がこれに当てはまるとされています。

特徴としては、音や光、匂いなど刺激に敏感に反応することが挙げられます。
より多くの情報を受け取ることができるので、察知や観察に優れていて、ちょっとした変化にもすぐに気づくことができます。
その反面、受け取りすぎる刺激は負荷にもなり、驚きやショックを受けやすくなってしまいます。

また、五感を通して得られた情報は、より深く徹底して処理しようとします。
たとえば、相手が「何気なく」発した言葉であっても、相手の仕草や言葉の裏などを深読みして、その言動の「真意」を探ろうとする等です。
洞察や考察が豊かなので、ひとつの物事にじっくり取り組むような仕事に向いているとされます。
その一方で、短い時間にたくさんのことを同時にやろうとすると、処理が追いつかなくなり混乱を来たすこともあります。

このような事情を知らず、驚いたり混乱したりする姿ばかりに注目して、神経症などの疾患や精神的な障害だと決め付ける人も居ます。
でも、これはとんでもない誤解です。
欠点ばかりを取り上げて、その人の持っている「良さ」を見つけ出そうとしていないからです。
生まれつき高度な感覚や処理能力を持っていることが、短所なんかであるはずがないのですから。

今の社会は、「異物」を排除しようとする傾向が強い社会です。
でもそれは果たして本当に異物なのでしょうか。
多数派の人にとって理解ができないものを、異物だと決め付けているだけではないでしょうか。
人は生きている限り、病気や怪我などとは無縁ではいられません。
住むところが変われば、多数派と少数派が逆転することだってよくある話です。
少数派に「転落」することを恐れて、多数派に残ることに執着する社会。
果たして、こんな社会が生きやすい社会と言えましょうか。

人は、ひとりひとり違って当然です。
多数派も少数派もありません。
ましてや異物と決め付けて排除するなど、決して許されることではありません。
皆が同じように考え、同じように行動することを要求する社会は、いずれ行き詰ります。
人と違った考えや行動を完全に封じ込めてしまうことは、客観的な判断や成長の機会まで奪ってしまうからです。

ひとりひとりが持っている良さをお互いに認め合い、それを十分に活かす事ができる社会。
それこそが、誰にとっても生きやすい社会なのではないかと僕は考えています。

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テーマ : アスペルガー症候群・自閉症スペクトラム
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暑気払い



お盆と年末の恒例行事。
必ず声をかけてくれる中学・高校時代からの友人が居て、楠葉界隈で飲み会を開くのが定番になっています。
ところが今は僕自身がいっぱいいっぱいの状況なので、さて今回はどうしようかと思案していたのですが…。
「気分転換も必要やで?」
と幹事氏から後押しされたこともあって、思い切って参加することにしました。

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これが問題の「いっぱいいっぱいのひと」の近影。
ここ半年で5kgばかり痩せました。
もちろんRIZAPしたとかじゃなくて、どちらかと言えばやつれた感じ。
それでも一応、身体的には健康と言えば健康なので、日に焼いてみたりしています。
少しは見栄えも良くなりましたでしょうか。(゜゜)☆\(ーー;バキッ

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最近、体力をこそぎ落とされるような感覚があるのですが、訪看さんによれば異常なまでの暑さが原因だろうとのこと。(毎晩の飲酒量は正直に申告してます。)
そりゃ連日35℃前後をウロウロしている上に、梅雨前線やら台風やらが連れて来た湿気やら、熱帯夜がデフォルトな日々やら、「殺人的な暑さ」の呼び名にふさわしい蒸し暑さっぷりです。
それでも昨夜は夜風が心地よかったので、本当に助かりました。(*´ω`*)

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最近、ビールが主食みたいな人なので、幹事氏からも心配されていたのですが、僕にとってはビールは食欲増進剤みたいなものなので、思いのほかガッツリと食べている僕の姿を見て、幹事氏も安心していたようです。
ごくごく自然体で、こうして遊びに誘ってくれたり、心配してくれる友人たちが居てくれるということに、本当に感謝しています。
昨夜は本当にありがとうございました。m(__)m

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訪問看護はじめました


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もう15年になりましょうか。
初めて精神科に受診した時のことです。
診断名こそ「抑うつ」でしたが、医師は言いました。

あなたに医療は馴染まない。
あなたに必要なのは、兄貴分のような存在だ。


当時「うつは心の風邪」というキャッチコピーが流行っていました。
精神疾患は投薬で治るという宣伝が繰り返され、精神科に受診することへの「ためらい」が少しずつ解消していった時代です。
副作用の少ない新世代の向精神薬が続々と登場し、気分障害(躁うつ病など)や統合失調症などを抱える当事者の日常生活を(医師の指示通り薬を飲み続ければ)通常レベルにまで改善できるようになりました。

ところが、このキャッチコピーには大きな弊害が隠されていました。
それは「うつは必ず治る」という誤解を与えてしまったことです。
実際、僕のように原因が別にある抑うつ症状については、対処療法はできても本来の原因が別にあるので根本的な解決にはなりません。
そのことについて、医師は的確に説明していたのだと思います。

その本来の原因とは何なのか。
当時は「発達障害」という言葉があまり知られていなかったこともあり、医師は「成長の段階で必要な発達の獲得ができていないことが、社会への適合を難しくしている」と説明していました。
その言葉の意味をようやく理解できたのは、7年前に今の医師に受診して「広汎性発達障害」と診断されてからです。
発達障害とは何なのか。
それから必死に勉強を始めて、今ではなんとなく理解したつもりになっています。

そんな事情があって、向精神薬で「抑うつ」を抑えることはできても、寛解には程遠い状況です。
結局は、抑うつを引き起こすような状況を自力で一つずつ潰していくしかないのです。
発達障害に理解のある環境であれば、周囲の協力も得られましょう。
でも現実には、白杖を持てば後ろから殴られ、マタニティマークを付ければお腹に蹴りを入れられるようなご時世です。
京都府が「外見から障害があることが分からないことを表す」ヘルプマークの配布を始めたので、すぐに受け取りに行ったのですが、最初はなかなか周知が進まず、今は今で怖くて付けることができません。
悲しいかな、無理してでも健常者のふりをしている方が、安全に過ごすことができるのです。

それでも、健常者のふりを演じ続けるのには限界があります。
僕の場合、不都合があっても辛抱して飲み込んでしまうので、周囲の人から気づかれることはありません。
でも問題解決を回避し続けている限りは、ためこむものは雪だるま式に膨らんでいき、溢れそうになっている堤防に最後の一撃が加わった瞬間、大洪水を引き起こします。

過去に何度か大洪水を引き起こしては、その度に相当痛い目に遭って来たので、話を聞いてくれる人を探しては、そのことを伝える努力を続けて来ました。
その成果もあってか、最近は堤防が危険水位に達した段階で気づいてくれる人が徐々に増えて来ました。
自分でも気づかぬうちにストレスを抱え込んでいる時に、その状況を察してくれる人が身近にいることは幸いです。
一人居てくれるだけでも大助かりなのですが、人間誰しも疲れている時もあれば休みたい時もある訳で、死角を埋める意味もあって、そういう人が増えていってくれることに、とても感謝しています。

白状しますと、先月ついに大洪水を引き起こしてしまいました。
予兆を感じ取っていた病院やほっとハウスが事前に準備を進めていたこともあって、その後の展開は速かったです。
すぐにほっとハウスと病院の精神保健福祉士を中心とするチームが結成されて、今回の精神科訪問看護につなげてくださいました。
これまでは服薬とほっとハウスへの避難でしのいで来ましたが、これからは環境に対しても改善の手が加わることになりました。

健常者と呼ばれている人たちの中には、自分が相手を苦しめる原因になっていることに気づけない人が少なからず居られます。
白杖やマタニティマークを持っているというだけで無関係な人に暴力を振るう人など到底論外ですが、偏見や誤解もあって無意識のうちに相手を傷つけてしまっている人は、決して少なくありません。
こんなことを書いてる僕自身、知らずのうちにやってしまっているかもしれません。
そのことを自覚し、日々の言動に心を配ることは、とても大事なことだと思います。

先週から、週に一回、訪問看護ステーションから看護師さんに来ていただいて居ます。
看護師というと女性のイメージが強いですが、今回は男性です。
はからずも「兄貴分のような存在」を得ることができたのかもしれません。
まだまだ始まったばかりですが、朗報を書き綴ることができるような日々が訪れてくれることを願っています。

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テーマ : アスペルガー症候群・自閉症スペクトラム
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変化することへの自由


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チルノ「幻想郷最強を誇るアタイ! リニューアルして再登場!! わははははは!!!」

先日体験版が公開された東方Project最新作「東方天空璋」にて、我らが愛すべきチルノちゃんが驚きの自機抜擢です。
ええ、そりゃもう色々なことで驚かされましたよ。
猛暑やら炬燵やらで溶けて水になる…というのが二次創作上での「よくあるネタ」だったのに、公式にそれを否定されちゃった訳ですから。

真夏でも解けない氷。
突如現れたアサガオの仕業なのか?
そもそも氷が日焼けするのか??
これこそが、幻想郷最強を自称誇る妖精の底力!?
早苗さん「この幻想郷では常識に囚われてはいけないのですね!」

胸元のヒマワリと相まって、以前にも増して可愛らしくなっての再登場。
僕的にはむしろ大喜びなのですけどね。(。-∀-) ニヒ♪


     * * *


今から思い返すこと30年ばかり昔のお話。
それまでマルーン1色塗りだった近鉄電車の一般車が、マルーンとシルキーホワイトの2色塗りに代わった時、どこかヨーロピアンな気品すら感じさせていたものが、なんだか随分とダサくなったものだとガッカリしたものです。
大阪線1400系電車や奈良線8810系電車以降であれば結構似合っていましたが、それ以前の在来車ではまるでタヌキみたいの一言。
それでも塗り分け線を再調整すると在来車の印象も落ち着いてきて、今となってはすっかり慣れてしまいました。
ああ、慣れって恐ろしい。

今は今で京阪電車の塗色変更が大詰めを迎え、最後の砦と言われていた大津線も京津線用800系電車を含めて京阪線同様の新標準色に改められてしまうことが発表され、緑の濃淡2色塗りに慣れ親しんできた身としては寂しい限りです。
5ドア車ながら昼間は3ドア車として運用できる京阪自慢の5000系電車も、京橋駅のホームドア設置との関係で全車引退することになりました。
ラッシュ用ドアをただ締め切るだけでなく、天井に格納されていた昼間用の座席が下りてきて、ドア間4人掛けのロングシートが12人掛けに化ける姿は、テレビでもたびたび紹介されるほどの人気ぶりでした。
最初の編成が登場したのは、僕と一つ違いの1970年。
急激に変化していく社会の中で、今日に至るまで当時の設計思想を十分に活かす形で40年以上も活躍を続けたことは称賛に値します。
寂しいですが、ここは誇りを持って勇退の日に臨んでほしいと願います。

前置きが随分と長くなりましたが、僕という人間は「変化」を嫌う傾向にあるようです。
日常的に使っていたものが急に変わってしまうと、ひどく戸惑ってしまいます。
何かをやっている最中に別の仕事を言いつけられると、手順や今後の予定が狂わされることに強いストレスを感じます。
ある人が言っていたことが、次には全然違う内容に変わっていた時には、もう何を信じて良いのか分からなくなります。

発達障害の一つであるASD(自閉症スペクトラム)の特性の一つに、特定の行動において一定の様式を繰り返すことを好むという特性があります。
(※当事者全員がこの特性を持つ訳ではありません。)
たとえば、朝起きてから家を出るまでの間には、朝食や身支度などの「作業」がたくさんあります。
それぞれの作業には一定の順番があり、一定の手順があり、一定の位置があります。
これが一つでも狂うと、そのこと自体が大きなストレスになったり、パニックになったりするのです。
当事者でないとピンと来ない話かもしれませんが、そういう人を見かけたことはあるかもしれません。
ただ、僕のように自分の中にため込んでしまうタイプの人だと、周囲の人はいよいよ気付かない訳なのですが…。

チームでやる作業より、一人でやる作業の方を好みます。
ダイレクトメールの封緘作業を一日黙々と続けていても全然平気です。
逆に、みんなで材料を持ち寄ってアウトドアでバーベキューなんか始めると、たちまち何をして良いか分からなくなります。
料理ができないという意味ではありません。
自分ひとりであれば、自分のやりやすい方法と順番で黙々とこなしてしまうでしょう。
ところが、みんなが一斉に自由に動き出すと、そのうちの何をやれば良いのか、全然わからなくなってしまうのです。
ただ、チームでやる作業でも、役割分担がきちんとしていれば問題なく作業できます。
材料の切り込みを任されれば黙々と食べやすい大きさに材料を切っていきますし、飯盒炊爨を任されれば火の前から一歩も離れることなく最後の一缶まで責任もって炊き上げます。

作業手順や目的が明確な作業は得意だけど、曖昧な要求に曖昧な成果を求められるような作業は苦手と言えましょうか。
一定のルールに従って会話をできる相手とは普通に話ができますが、色々な意味でフリーダムな人との会話は非常に苦痛です。
ライン作業もトラブルが皆無なのであれば黙々とこなしますが、頻発するトラブルに手探りの対応を迫られた日には、そりゃもうパニックものです。
では突発事態が苦手かと言えばそうでもなく、事故に巻き込まれた時には割と冷静に粛々と行動していたりします。
どうやら、決められたルールの中で作業をしている中で、それを覆すような要求をされると強いストレスを感じるようです。

特定の行動において一定の様式を繰り返すことを好むということは、ただひたすら同じことを繰り返すという意味ではありません。
一見同じことを繰り返しているように見えますが、実は少しずつ「進歩」しています。
それはより合理的な方法への修正であったり、遊び心の付与だったりします。
例えば職場で同じ仕事を毎日繰り返しているように見えても、日々効率的になっていくことで、いつの間にか生産量を上げていたりします。
それも無理なく手堅い方法で。

今の世の中は、やたらと目新しいこと、劇的なことを求める風潮があります。
ところが、時間をかけてゆっくり変化していくものだから、なかなか周囲の人に理解してもらえない。
周囲の人からしてみれば、まるで変化を拒んでいるかのように映るようです。
そうではありません。
新しい行動や様式を受け入れるのに、どうしても人より時間がかかってしまうのです。
ところが周囲が待ちきれなくて急かすものだから、修正が追いつかなくなってパニックになってしまう。
すると、そこへ発達障害というレッテルを貼り付けて、いわゆる「障害者」として切り捨ててしまうのです。

ニッポンという社会は、随分と不思議なところです。
基本的には保守的であることが好まれるのに、トップダウンで決められたことには愚直にまで従おうとします。
変化を求めてもいけないし、変化を拒んでもいけないらしいです。
主人公でいられるのはごく一部の限られた有力者であり、大多数の人はそれに従うのが良しとされます。
果たしてそうなのでしょうか。
有力者に従ってさえいれば、平穏な日々が送れるのでしょうか。
束の間の安寧は確保されるのかもしれません。
でもその先に待っているのは何でしょう。
日々の生活を管理され、不本意な作戦を強要され、役に立たなくなれば切り捨てられます。

どうして自分自身が主人公であってはいけないのでしょうか。
それはもちろん、他の皆もまた主人公であるという前提でです。
物質的な豊かさは遠のくかもしれません。
でも生きることを辞めてしまうことを考えれば、果たしてどちらが良いのでしょうか。
長生きしたいとも思いませんが、滅私奉公で一生を終えるつもりもありません。
当時働き盛りだった従兄を突然死で亡くして以来、ますますそのように考えるようになりました。

求められた変化が果たして必要なものかを十分に考え、自分で判断し、そして時間をかけて変化を受け入れていくこと。
これを僕は「変化することへの自由」と呼んでいます。
変化は決して他人から強要されるものでもないし、また拒み続けるものでもありません。
議論とは、どちらが正しいのかを争うものではなく、新しい選択肢を作り出すことです。
いわゆる「話し合いの場」というものが日々苦手になっていく、ASD当事者のひとりごとです。

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春を迎えて


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先月より、7年ぶりの抑うつに襲われています。
原因は人的環境から来ているものなので、自分一人の力で解決できる問題でもありません。
病院や福祉施設に足を運びつつ、今にも崩れそうな積み木を少しずつ補強している毎日です。

久々の本格的な抑うつなのですが、今回は不思議と冷静です。
以前のような不安や焦りが無いのです。
セルトラリン(抗うつ薬)を処方されているおかげでもあるのですが、ここ7年ばかりの間に積み上げて来た知識や経験が活きていることを実感しています。

抑うつの診断名しか出ていなかった頃は、とにかく自分自身を責め続けていました。
コミュニケーションの問題も、降りかかるトラブルへの対処も、全て自分自身の力で乗り越えないといけないと思っていました。
「健常者」を演じ続けることにエネルギーの大部分を注いでいました。
至らぬ自分を責めては、周囲の人とのトラブルに怯えて暮らす毎日でした。

7年前の抑うつの時に、ほっとハウスの職員さんに連れられて診てもらった病院で、「広汎性発達障害」と診断されたことから、それまでの生活は大きく変わることになりました。
それは、今までの苦労がゴールしたという意味ではありません。
ようやくスタートラインに立てたのです。

都合が良い時だけ「健常者」を演じれば良いと割り切って、自分自身の特性を受け入れる覚悟を決めました。
そして、社会に馴染めないでいる自身の特性について必死に勉強しました。
ここ5年ばかりの間に発達障害を取り巻く環境は飛躍的に改善しました。
そのことも追い風になり、自分自身の特性を少しずつ理解し、受け入れることができるようになりました。

今は一種の「発達障害ブーム」のような時代です。
発達障害という診断名を求めて精神科医を訪れる人も少なくありません。
でもこれだけは言いたいです。
診断名が出ることがゴールではありません。
むしろ、そこからがスタートなのです。

発達障害という診断名さえあれば、世間が配慮してくれるという発想は間違いです。
どんな診断名が付こうとも、どんな支援が得られようとも、日々の生活と闘うのは結局は自分自身です。
自身の特性を冷静に理解し、社会とすり合わせていく努力をしない限り、いずれは社会から締め出されてしまいます。
もちろん、社会から離れて一人で生きていくというのも、一つの選択です。
でも、自分一人の力だけで自給自足で生きていけるほど強くないということも自覚しています。

必要な助けは求めたら良いのです。
でもそれは、与えてもらうばかりではないはず。
自分の気づかないところで何かを返しているはずなのです。
それは一体何なのか。
社会の中で生きていくということは、きっとそういうことだと思うのです。

今も毎日が勉強です。
でもそれは周りから強いられてする勉強ではなく、自らが望んで自らのためにする勉強です。
そして、日々少しずつ「成長」している自分に誇りを持っています。
今自分が冷静に抑うつを対処できているのは、そんな見通しが立っているからだと思います。

人生、死ぬまでが勉強と申します。
その言葉の意味を実感している毎日です。

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テーマ : 広汎性発達障害
ジャンル : 心と身体

プロフィール

かずや(京ヤワ)

Author:かずや(京ヤワ)
河津屋京柔/かずや(京ヤワ)は、京都府下在住の東方好きなMacユーザーです。
昔は電車小僧。今は鉄道おじさん。多分この先も?
発達障害の一つ、ASD(自閉症スペクトラム)であることを知ったのは、40歳手前のことでした。
開き直るほどタフじゃないけど、生きるのが随分と楽になりました。
毎週日曜日にキリスト教会に通う程度には信心深いようです。
ちまちまとパソコンでお絵描きしたりしていますが、最近は寡作気味です。

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