転んでもただでは起きない?

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本居小鈴「うふふ、転んでもただでは起きないよ♪」

はじめて小鈴ちゃんを描いてみました。
最近、「深夜の真剣お絵描き60分一本勝負」というタグの付いたイラストをpixiv内で見かけることが多いのですが、僕には絶対無理!
まず最初にパソコンを立ち上げて、埃の掃除をはじめたり、本棚の整理をはじめたり、冬の寒さで冷えた手の指を温めたり、花粉症対策の甜茶を飲んだりして、ようやく観念して描き始めるまでが「60分一本勝負」みたいな人なので。(゜゜)☆\(ーー;バキッ

描き上げるまでの時間ですか?
多分、50日ぐらい。
構想が40%、気合い入れが30%、現実逃避が20%、突発的整理症候群が10%。
あれ? 描く時間は何処に?? ( ゚Д゚)


     * * *


以下、前回の記事を書いた後も意識下で燻っていた闇の炎がダークフレイムマスターしそうになったので、ベクトル変換を試みてみた結果のログファイル的な何かです。
きっと読んでも面白くないです。
興味のない方はスルー推奨です。



【井戸端会議について考える ~ほっと賃をめぐる話し合いから~】

2月21日の井戸端会議から、どうにも眠れぬ夜を過ごしています。
とてつもない疲労感に襲われた後、今度はふつふつと怒りの感情すら湧き起こっています。
負の感情に支配されることは精神衛生上とても良くないです。
ストレスを発散させるという方法もありますが、せっかくのエネルギーを無駄に消費するのも勿体無いので、正の方向へベクトル変換を試みることにしました。

原因は割とはっきりしています。
本来は憩いの場であるはずのほっとハウスで、心に暗く重いものを押し付けられる思いを幾度もしているからです。
それは一体どのようなメカニズムで発生しているのか。
どのような解決方法が考えられるのか。
眠れぬ夜を有効活用すべく、自分なりにまとめてみることにしました。


【1】話し合いの場における問題点

井戸端会議は、ほっとハウスの伝統の一つです。
スタッフ主導でなんでも決めてしまうのではなく、当事者同士が当事者目線でスタッフと一緒になって対等に話し合う。
とても良いことだと思います。

井戸端会議が始まった当初は、開くことそのものに意義があったと思うのです。
その考え方は決して間違っていないと思うのです。
問題なのは、時が流れ利用者の意識が大きく変化してきたのに、旧態依然のまま昔のやり方を踏襲していることです。

ほっとハウスの開設当初は、何もないところからのスタートだったので、得るものこそあっても失うものは何もありませんでした。
ところが施設としての認可を受け、環境が整った今の姿しか見ていない利用者にとっては、いかにして自らの既得権益を守るかという話に終始する傾向が強いです。
このことを責めてはなりません。
既にある"あたりまえのもの"を手放すことは、誰だって怖いのですから。
話し合いが難しくなるのは当然の帰結です。

伝統を守ることも大事です。
でもそれ以上に大事なのは利用者自身であり、それを受け入れるほっとハウスを存続させることだと思うのです。
健常者でさえストレスを抱えて病気になりそうな議題を続けているのです。
それを精神障害者の当事者に強いているのだとすれば、このことの方が問題だと思うのです。

当事者の一人として、最近の井戸端会議の中で感じている問題点をいくつかピックアップしてみたいと思います。

①考えがまとめられない
統合失調症等を抱える身としては、刻々と入ってくる情報を適切に整理し、自らの考えを再構築するという行為そのものが苦痛ではないかと思うのです。それが適切にできるなら、普通に健常者として生活しているはずです。それを会議の名のもとに強要しているなら、二重に傷つけていることにならないでしょうか。

②記憶が続かない
薬剤等の副作用もあって、記憶が欠落したり持続しない人も居られます。話も一本筋には進みませんから、別の話しの筋に移ってからまた元の話しの筋に戻ってきた時、果たして元の話の続きだと理解できているのでしょうか。

③話の方向性が見えない
うつ病を抱える身としては、先行きの見えない話を延々と続けられることが他のひと以上の苦痛となります。発達障害を持つ身としては、どのように話の流れに乗れば良いのか分かりません。逃げ出したくなるのも当然です。

④マナーが守れない
人が話しているのを遮ったり、議題と関係のない話を延々と続けることは明らかなマナー違反です。本人は正しいことを言っているつもりでも、誰かに対する非難や中傷、一方的な要求を強いることも他の人には不愉快です。何度注意されても繰り返します。これもまた障害特性のひとつなのですから。

⑤障害者に対する過大評価
障害者と言っても障害特性を除けば普通の人間です。言い換えれば、健常者と何の変わりもない、ごく普通の人間なのです。障害者の言うことだから秀でているということもないし、障害の有無に関わらず考えなしの言動をすることも当然あり得ます。障害特性から熟慮することそのものに困窮している身となれば、尚のことです。当事者目線というのは、当事者に丸投げすることではありません。同じ対等な人間として、対等に話し合うことにすぎないのです。

⑥障害者に対する過小評価
同じテーブルに付かせることが平等だと履き違えていないでしょうか。これは強者の論理です。狐には皿で料理を出すように、鶴には壷で料理を出すように、合理的配慮があってこそ、はじめて平等が成り立つのです。同じ皿で出せば見てくれが同じだから満足してくれるだろうという感覚なのであれば、それは傲慢であり、差別そのものなのです。小手先だけの対応に憤りを感じている障害者は決して少なくありません。自己満足的な対応は、相手の反感を買うだけなのです。

⑦合理的配慮が不足している
これだけの配慮を司会者一人に委ねることは不可能です。少なくとも調理作業の片手間でできることではありません。また、調理そのものが参加者の意識を拡散させる原因にもなっています。精神障害者を会議の場から排除することなく話し合いを進めるのが目的なのであれば、実は普段の日中活動以上の手間がかかるし、それなりの介助者が必要となるのです。


【2】ほっと賃についての誤解

前回から引き続き井戸端会議の議題になっている"ほっと賃"について、話し合いを持つならば、まずはその仕組みを理解しなくてはいけません。
残念ながら、その仕組みをきちんと理解している利用者は決して多くありません。
話し合いの前提条件が整っていないのですから、話し合いが迷走するのは当然の成り行きです。

"ほっと賃"について整理するとこうなります。

①ほっとハウスを施設として認可してもらう時点では、共同作業所という枠組みしか存在しなかった。そのため、工賃の支払い義務が発生した。
②障害者自立支援法…現在の障害者総合支援法では、地域活動支援センターという枠組みが定められたので、工賃の支払い義務は消滅した。
③ほっとハウスでは収益を伴う日中作業を基本的にしない方針なので、作業収益はほとんど存在しない。
④現在の"ほっと賃"は、利用者が毎日支払う飲食費を割り戻すことで維持している。つまり"ほっと賃"は、世間一般で"つもり貯金"と呼ばれているものと実質的には同じ。
⑤"ほっと賃"のシステムを維持するために、スタッフの業務が煩雑になっている。ほっとハウスの運営そのものが逼迫している状況下で、利用者の日中活動や生活全般への支援を犠牲にしてまで続けなくてはいけないほど重要性のある制度なのか、きちんと再考する時期に来ている。


これらのことがきちんと理解されていないため、井戸端会議が無駄な迷走を続けています。
特に次の点がきちんと理解されていないことは深刻です。

①ほっと賃は「つもり貯金」であり、収入ではない。
②つもり貯金ができるのは、貯金できるだけのお金を持っている人だけ。


この二つの点が整理されていないため、「ほっと賃がほしい」「お金は払いたくない」という意見が対立する構図になっていて、「ほっと賃を廃止する」ことの意味が完全に誤解されているように感じます。
そもそも、ほっと賃の話し合いについて、どのような方向で話を進めていくのかという道筋がまったく示されていません。
当事者同士の話し合いに委ねたいという気持ちは理解できますが、これではいたずらに利用者同士の溝を深めるばかりです。
話し合いを円滑に進めるためにも、井戸端会議でこそ合理的配慮を実践してもらいたいと願うのが、精神障害の当事者の一人としての率直な願いです。


【3】話し合いの場における合理的配慮とは

以上の点をふまえて、いくつか具体的な提案をしてみたいと思います。
すぐに実現できるものもあれば、そうでないものもあります。
また、これはあくまでも個人的な意見ですから、これが正解という訳ではありません。
話し合いを円滑に進めるための方法を探るためのステップとして活用して頂ければ幸いです。

①健常者の真似をすることが目的ではない

私たちが望んでいるのは、健常者と同じように立ち振る舞うことができる社会ではありません。
健常者と同じ方法に頼らずとも、同じ程度の努力で同じ目的が達成できる社会です。
健常者の真似をさせることで目的を達成できていると認識するのであれば、それは一人の人間として幸福を追求する権利を消極的に奪う行為に他なりません。
本当の意味での当事者目線に立つならば、健常者の枠組みに押し込めることではなく、既存の枠組みに囚われない新たな価値観と方法論の構築が求められているのです。

②時間と場所の設定を見直す

現在の井戸端会議は、メンバーの最大限の出席を促すことに力点を置いた会場設定をしています。
この考え方は決して悪くはないのですが、メンバーの出席さえ多ければ良いという考えは間違いです。
個々のメンバーが落ち着いた環境で積極的に対話ができることが目的でなければ、ただの報告と承認の場に終わってしまいます。
報告と承認だけが目的ならば、苦しい思いをしてまで会議に参加する意味がありません。
言質を得ることが目的ならば、それは既に話し合いではありません。

人が会議に出たくないと考える一番の理由は、長時間にわたり物理的にも精神的にも拘束されるからでしょう。
逃げ場のない場所に閉じ込められ、苦痛にさらされ続けることが分かっているならば、それを避けようとするのは当然の判断です。
まずはこの苦痛を取り除くことを考えねばなりません。

もし適切な合理的配慮を実践するならば、介助者が確保できる時間帯でなくてはなりません。
最初から会議に参加するつもりがない人が混じったままの状態で会議を始めることも好ましくありません。
意識のある人であれば会議中に場を乱すような行為は慎むものですが、それを当然のマナーだと考えている人ばかりではありませんし、自分だけが仲間外れにされていると思い込んで、わざと気を引くような行動に出る人も居ます。
幸いなことに、ほっとハウスにはいくつかの部屋がありますから、参加状況に合わせて部屋を選ぶことも可能です。

出席者の頭数だけを増やせば良いということではなく、中身を充実させることにこそ力点を置くべきです。
意識のある人は調整してでも出席しようとしますし、意識のない人を無理やり同席させたからと言って意識が高まる訳でもありません。
もし意識を高めることを目的にしたいのであれば、まずは日常的な会話の中にそういう話題も少しずつ織り込んでいくという手法を考える必要があります。
とにかく無理強いはいけません。

③ルールが守れない人に対する合理的配慮

話し合いを持つためには、円滑にコミュニケーションができることが大前提です。
コミュニケーションとは「聴く、見る、感じる」「記憶する、整理する、考える」「話す、書く、表現する」の三つの要素で構成されており、このどれが欠けても支障が発生します。
精神障害者が精神障害者に区分される一番の理由は何でしょう。
適切な方法でのコミュニケーションを維持し続けることが困難なため、日常生活を送る上で大きな支障が発生しているからなのではないでしょうか。

入ってくる情報が適切に処理できず、同じ質問を繰り返したり、間違った意味で解釈していることを指摘されても理解できない人も居ます。
主題から外れた話を延々と続ける人も居ます。
他人に対する非難や中傷を繰り返す人も居ます。
言葉にできない思いが爆発して暴力的表現に至る人も居ます。
グループワークを実施するにあたり、事前にルールを決めて守れない人は注意し、それでも守れない場合は最初から会議に参加させないという対応が一般的です。
もしくは、万人を受け入れるという理想にこだわるがゆえに無秩序状態になり、建設的な話し合いになるどころか、負の感情ばかりが蓄積して容態が悪化する人さえも居ます。

ルールを守れない人を排除しても解決にはなりません。
ルールを守れない人に我慢しているだけでも解決にはなりません。
ルールを設けることが悪いのではありません。
守れない人が居ることを前提にしたルールを作ることにこそ問題があるのです。
最初から守れないことが分かっているルールならば、守れない人が居ることは当然の結果であり、すなわち個人の責任ではないことが明白です。
ルールは全員が守ることを前提としたものでなくてはいけません。
守れないルールを一方的に押し付けることこそが、差別問題の根源なのです。

特定の人にだけ不利益を強要することのないような環境を整えること。
これが合理的配慮なのです。

④話し合いの場に参加できない人への配慮

話し合いに参加できない人は、ただ面倒から逃げているだけなのでしょうか。
ルールが守れないことで排除された人も居るでしょう。
ルールを守らない人に傷つけられた結果として参加をためらう人も居るでしょう。
話し合いの先に明るい希望が持てなくて、最初から諦めている人も居るでしょう。
もちろん就労や家事等で物理的に参加できない人も居ます。

コミュニケーションが「聴く、見る、感じる」「記憶する、整理する、考える」「話す、書く、表現する」の三つの要素で構成されていることは、先に述べた通りです。
これを短時間に凝縮して効率良く行うものが「話し合い」です。
逆に言えば、効率が悪いのであれば話し合いという手段を選ぶ必要もありませんし、目先の効率の悪さに惑わされることがなくなれば、本当の意味で効果が期待できるコミュニケーションが可能だということです。

最初に考えられるのは、「聴く、見る、感じる」「記憶する、整理する、考える」「話す、書く、表現する」の三つの要素を分解し、一つずつ丁寧に行う方法です。
たとえば、一回目は自由に意見を出し合うだけで議決はせず、二回目は集約された意見を整理して高次元での合意を目指した提案にまとめ、三回目で承認を得るという方法です。
全員が一度に集まる必要はありません。
一回目はヒアリングやアンケートで代替が可能ですから、個々の特性に応じた方法を個別に選択できます。
二回目については、既に出ている意見を整理するだけですから、客観的判断に基づいて情報を整理できる人間に託してしまうことが可能です。
三回目についても承認だけなら全員が一度に集まる必要がなく、多数決という手段をとらなくとも、一つ前の段階に差し戻して再検討するという方法もあるのです。

⑤日中活動の本当の意味

大切なことは、すべてを可視化することです。
密室で話が進むようでは意味がありません。
一つ段階が進むごとに、掲示板等で進展状況とその中身を知らせる必要があります。
可視化の際には、分かりやすく説明することも重要です。
話し合いという短時間の緊張した空間では難しかった理解も、時間をかけて丁寧に取り込むことで理解がしやすくなるでしょう。

これは正直なところ、とても面倒な作業です。
時間も労力も根気も必要です。
だから、どこもやりたがらないのです。
面倒なら最初からやらなければ良いです。
上層部で意思決定し、トップダウンで話を進めれば簡単なことです。
だから面倒なことを嫌う企業や諸団体はトップダウンで話を進めたがります。
その結果、様々な弊害や軋轢に苦しめられた人々が、結果的に精神に障害を持つようになるのです。
先天的な要素もありますから、これがすべての原因だと言い切るつもりはありませんが、ほっとハウスが苦痛の再生産の場になるようでは、せっかくの憩いの場が台無しです。

日中活動を暇つぶしの作業を提供することだと履き違えている施設はいくらでもあります。
わずかな工賃を得るために、日々、施設運営側の自己満足に付きあわされ続けている精神障害者の実態に対するアンチテーゼが、このほっとハウスなのだと思うのです。
憩いの場は暇つぶしをする場所ではありません。
暇つぶしがしたいだけなら、そういう場所…ただし有償ですが…いくらでもあります。
暇つぶしではない何かを求めているからこそ、ほっとハウスは必要とされているのではないでしょうか。

暇つぶしではない何かは、一人ひとり違うはずです。
そして、それを誰からも邪魔されずに落ち着いて向き合うことができることこそが、ほっとハウスの魅力なのではないでしょうか。
休む人が居てもいい。
ゴロゴロしている人が居てもいい。
そして、自らの役割を見出して活躍する人が居てもいい。
ほっとハウスが生まれた当初は、それが自然と保たれていたのではないでしょうか。
ほっとハウスは便利屋でもなければメイド&執事喫茶でもありません。
それを期待している人は、そういうものを提供してくれる場所…ただし有償ですが…いくらでもあります。
無償だからと欲しいだけ貪ることを認めていては、ほっとハウスが潰れるのは時間の問題です。
それは福祉でも権利でもありません。
ただの我が儘に過ぎないのです。

⑥交通整理は指導ではない

もし今のほっとハウスに問題があるとすれば、日々の活動の中で交通整理がきちんと行われていなかったからではないでしょうか。
個々の特性が違うように、個々が必要とする支援も当然異なります。
無差別平等にサービスを受けることが正しいと考えているならば、それは大衆迎合の発想です。
果たして体重30kgの人と90kgの人が同じ量の食事を必要とするでしょうか。
同じ60kgの人であれば、全員が同じ量の食事を必要とするのでしょうか。
多すぎる食事は病気の原因にしかなりません。
納得しないからと欲するままに食事を与えるならば、それもまた虐待だと障害者権利条約では明確に規定しています。
合理的配慮とは、当事者の我が儘を許すものではなく、自らの努力で幸福を追求するために必要な最低限の環境を整えることを保障するものです。
最低限の環境とは、健康維持はもちろんのこと、自らの努力で幸福を追求する機会を保障することも含まれています。
もし当事者自身が、他人に要求を受け入れてもらうことばかりに意識を集中させるならば、それは幸福を追求する権利を自ら放棄していることに等しいのです。
当事者自身の意識改革がなければ、本当の意味での幸福は、ますます離れていくばかりです。

環境さえ整えれば潜在的に持っている能力が発揮できる人が多いからこそ、障害者権利条約は合理的配慮を明文化しています。
それは就労の義務ではなく、幸福を追求する権利です。
こんな基本的なことが守られていない現代社会だからこそ、ほっとハウスは必要とされていると思うのです。
そして、そのことはもっと社会にアピールしてよいと思うのです。
ほっとハウスの存続問題となると、どうしてもお金の話に偏ってしまうのですが、それは与えられることに慣れてしまった当事者の実態の映し鏡にすぎないのではないでしょうか。
お金が無いなら無いなりの運営の仕方があります。
そのためには、当事者自身も今まで以上の努力を課せられることになりましょう。
それは社会に媚びるための訓練ではありません。
我慢の練習でもありません。
新たな生き方の模索です。
今本当にしなくちゃいけない話とはそういうことであり、これは意図をもって交通整理しなくてはなりません。

ただ当事者に話し合いを呼びかけるだけでは、何も変わりません。
道筋を明確にした上で議論を積み重ねることのできる最低限の環境を整えることが緊急の課題だと考えます。
そのためであれば、自分の持てる限りの能力を費やして協力したいと考えている当事者の一人です。
健常者と同じような働き方はできなくとも、何もできない訳ではありません。
公的な支援が得られなくとも、手弁当で活動を続けている当事者グループは、京都にもたくさんあります。
こういう風に考えることができる人が増えてゆけば、ほっとハウスの運営は再び安定したものに戻るものと信じています。

(※この記事へのコメントは、SNS上にて受け付けています。)

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種を蒔いたら嵐が来た


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種蒔きをしても、そう簡単に芽が出るとは思いませんし、収穫など夢のまた夢。
やるべきことはやりましたし、しばらくは様子見するしかない訳なのですが…。
…先程から重くのしかかる、この徒労感は一体どこから来ているのでしょうか。(´;ω;`)

今日の午前中、予定通り井戸端会議が開かれました。
事前の打ち合わせ通り、1分間だけ時間を頂戴して障害者権利条約に関するアピールをさせて頂きました。
ひとつ前の記事に載せていた文書については、掲示板に貼って後から読んでもらう形にしました。
あれでも、まだ難しすぎるからと考えたからです。
口頭でのアピールは、「合理的配慮」の説明だけに絞ることにしました。

僕はサンマが食べられない人です。
だからと言って、ハンバーグを出すように要求すれば、ただの「我が侭」です。
サンマを食べないという選択をしたことについて、それを周囲から責めないでほしいのです。
もしくは、冷蔵庫にチリメンジャコが残っているのを見つけたら、それを代わりに食べることを許してほしい。
それが「合理的配慮」です。

自分がいくら困っていても、周囲の人はどう助ければ良いのか分かりません。
困ったことがない人にとっては、困っていることが「わからない」のです。
なので、助けてくれるのを待っているだけではいけません。
どのように助ければよいか、教えられる人になる必要があります。
障害者権利条約が大事にしているのは、こういうことです。


一緒に学習会に参加した仲間やスタッフさんたちには事前に文書に目を通してもらい、言葉が足りないようなら補ってもらうようにお願いしました。
いずれも合格点を頂けたようで、ダメ出し等もなく、アピールは無事に終わりました。
アピールは成功だったはずです。
…関係者以外の反応が皆無に等しかったことを除けば。

もちろん、いきなり言われて、すんなり行動に移せるような人間なんて、そうそう居ないです。
反発がなかっただけでも上出来と言えましょう。
確かにアピールそのものに対する反発はありませんでした。
実は、他のことに関心が集まっていたからにすぎないのです。

     * * *

ほっとハウスは、もともと憩いの場として開設した場所ですから、作業がない代わりに工賃も発生しません。
ところが施設としての認可を受けた当時は、現在の障害者総合支援法下における地域活動支援センターという概念が存在しなかったため、共同作業所として認可を受けるために工賃の支払い義務が生じました。
作業をしないのですから、もちろん収入はありません。
そこで考案されたのが、毎日の昼食代や飲み物代の収益をプールし、工賃として再分配するというものでした。
最初は収益に応じて分配額も変わりましたが、後に事務の手間を省くために日額150円に固定しました。
これが今となって混乱の原因になってしまったのです。

障害者自立支援法の施行により、ほっとハウスは地域活動支援センターに移行しました。
この時点で工賃の支払い義務は消滅したのですが、一旦は"ほっと賃"として継続することになりました。
ところが昨年の秋頃に、代金入れに集められていた金額が実際に飲食した人数とまったく合わないというトラブルが発生し、これをきっかけに"ほっと賃"について見直すことになりました。
今までは"ほっと賃"を捻出するために、言わば余分に代金を徴収していた訳で、果たして続ける意義があるかどうかという話が、前回の井戸端会議からの継続審議となっていました。

もともと必要のないものでしたから"ほっと賃"は廃止した方が良いという意見が多数でしたが、"ほっと賃"を残して欲しいという人も居ます。
他の施設では、これだけの額が貰えないから…というのが理由なのですが、僕は妙な話だと思いました。
他の施設は作業収益から工賃を支払っているので、純粋に収入と言えましょう。
ところがこの施設では、ただお金の回しっこをしているだけなので、実質的な収入はゼロなのです。
果たしてこのことを理解しているのか。
本当はこんなことを疑うこと自体が失礼な話なのですが、残念ながら現実なのです。

財布の中身の管理ができていなくて、お金が足りなくなると「盗まれた!」と騒ぐ人も居ます。
特定の人ばかりに続くので、(本当は良くないことなのですが)朝の時点で家から持って来た額をスタッフさんに確認してもらうことを続けたところ、朝はなかったはずのお金を「盗まれた」と言っていることが判明したのです。
一度ぐらいなら誰しも勘違いということで済むのですが、これが被害妄想と重なって日常的に繰り返される訳ですから、特にご家族は毎日大変な思いをされているのではないかと思います。
騒ぐ本人の責任だと切り捨てたところで何の解決にもなりません。
財布の管理を他の人に委ねるという方法もあるのですが、できれば最後の手段として残しておきたいというのは、ご本人も含めてそうなのだと思います。

司会役のTさんは、できればスタッフが上から押さえつけるということはしたくないという方針の所長さんなので、やはり当事者同士の話し合いで解決するのがベストです。
僕も当事者の端くれですし、このお金のマジックの説明に挑戦してみることにしました。
つまりは、こういうことです。
"ほっと賃"として150円もらうために、本当はそれまでに150円払っているのだと。
"ほっと賃"の150円をもらうために、ほっとハウスに来るだけでも150円払うことになってもいいのかって。

そしたらね、今度は別のところに飛び火したのですよ。
突然、別の利用者から「お金がない人からもお金を取るの!?」と驚きの声が上がったのです。
たとえ話をしただけで、そんな提案をした覚えはないのですが。
そもそも、なぜ僕に噛み付く? (´;ω;`)ブワッ

それからが大変。
片や毎日150円払ってもいいから"ほっと賃"が欲しいと言いますし、片やお金が払えない人は来ちゃいけないのかって恨み言を言いますし、そもそも双方の利害が対立しているだけなんだから二人の間で解決してくれればいいのに、なぜかそうはならない。
再度の継続審議ということで井戸端会議が終わっても、おひとりは何度もその話を蒸し返してきます。
「この人、お金の無い人は来るなって言ってる! なんでやの!」
だから、そんなこと言ってないんだってば! ヽ(`Д´)ノウワァァン!!
もしや僕の言い方が悪かったのかと後から周囲の人にも確認してみましたが、そんなことはなかったと言います。

結局のところ、考えが頭の中でまとめられないことと、記憶が持続しないことが繋がって、何度も何度も蒸し返すような発言に至るのだとTさんは教えてくれました。
教えてくれるのは良いのだけど…僕なら自分で切り抜けてくれるものと信じているのか…辛いやら、嬉しいやら、とっても複雑な気持ちです。
一応、僕も発達障害を抱えて、地域活動支援センターを利用している一人なんで…。
…そういえば、僕のこと「準スタッフ」って呼んでいた人も居たなぁ(苦笑)

「精神障害者=会話の通じないひと」なんてレッテルは貼ってほしくないのだけど、こういう場面に直面すると、どうしてもそういうイメージが植え付けられてしまうのだと痛感させられました。
前回の記事でも触れていましたけど、そもそも会議というスタイルこそが、一定のコミュニケーション能力を持っていることを前提にしているのだと思うのです。
そして、会議に参加できる人だけで話し合いを進めてしまうことの危うさも感じます。
これこそが、障害者権利条約が警鐘を鳴らしている現実なのですから。

会議に参加する資格うんぬんではなくて、もともと会議というスタイルが合わないのだと思うのです。
精神障害者をひとくくりに考えてしまうのではなくて、個々の事情に応じたアプローチの環境が整っていれば、無用なトラブルも起こらず、もっとスムーズに話が進められるのではないかと感じるのです。
もっと少人数のグループに分けての話し合いの方が良いのか?
コミュニケーションを仲立ちする人を介添えさせれば良いのか?
考えがまとめられやすいようにホワイトボード等で可視化させる工夫等…。
本当は、やれるべき「合理的配慮」は色々あるのかもしれません。
要は、それを意識して取り入れるかどうか。
まずは当事者同士の溝から埋めて行かなくてはならないようです。

かく言う僕自身も広汎性発達障害の持ち主です。
決して話し合いが上手な訳ではありませんし、やっぱり会議は苦手です。
今日は念入りに準備した上で覚悟して挑んだので被害は軽微でしたが…。
…きっと缶ビール2本を消費して長文記事1本で修繕出来る程度。(゜゜)☆\(ーー;バキッ
長々と書いているうちに、かなり気持ちが落ち着いてまいりました。
落ち着いて考えてみれば、今日もまた貴重な体験をさせて頂くことができました。
流石に感謝とまでは言いませんが…。(;´∀`)

今回もまた長文駄文にお付き合いさせてしまい、申し訳ありません。m(__)m

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市役所ロビーでの販売活動を通して



昨夜はバタンキューで朝まで12時間ばかり寝てたひとです。
ここのところ張り切りすぎたから?
別に走り回っている訳でもなく、転がり込んでくる話を粛々と消化していただけですよ?
何事もタイミングが重要です。
焦りは禁物ですが、石橋を叩いているうちに流れてしまっても悲しいものがあります。

ちなみにMacBookの輝度ムラは相変わらずです。
やはり液晶ディスプレイのバックライトを制御するインバータの寿命…という仮説が濃厚なのか。
MacBookの付属キットにあった「Apple Hardware Test」を引っ張り出してきて、1時間ばかり時間をかけて診断してもらったのですが、結果は"異常なし"。
でも、これは持ち込み修理の際の「簡易テスト」と同じ精度らしいので、人間で言うところ「定期健康診断」みたいなものでしょうか。
そういえば、長らくバリウム飲んでないなぁ。
ストロベリー味とヨーグルト味を試飲できたので、次のフレイバーを密かに期待していたのですが。(゜゜)☆\(ーー;バキッ

それで昨日の話です。
いつものように、近鉄京都線小倉駅の近くにあります精神障害者向けの地域活動支援センター「ほっとハウス」へ。
井戸端会議があるだろうと思っていたら、その日になって市役所でのロビー販売とカチ合っていることが判明して、日程を移動できる方を動かした結果、急遽ロビー販売に出かけることになりました。
本来であればメンバーさん(ほっとハウスでは施設利用者のことをこう呼んでいます)が参加するのがベストなのですが、"仕事をしないことが仕事"がモットーのほっとハウスですから、いつもの如く留守番志願者が圧倒的多数。
あらゆるコネを駆使して物品を売り捌く猛者…もといベテラン売り子さんが一人名乗りを上げたのですが、この日は朝から薬を飲み間違えたらしく、とてもお願いできるような状態ではなかったので、大事をとってお断りしました。

僕はと言えば、過去に一度だけ参加して対人恐怖症を再認識させられて以来、ロビー販売には参加していませんでした。
ですが、先週からスイッチが入りっぱなしの人です。
ここで辞退するなんて選択肢は最初から存在しません(笑)
喜び勇んで担当の職員さんと一緒に宇治市役所へ向かいました。

販売時間は、正午前から午後1時すぎまでの一時間半ほど。
各施設が持ち回りでやっていますから、同時に出店する施設はありません。
畑で収穫した芥子菜と山芋が全部売れましたから、ロビー販売としては上出来です。
もともと販売で売り上げを出すことが目的ではなく、障害者の存在を一般の方々にアピールすることが目的ですから。

販売中、ふと考えたのです。
今回、お店に立っているのは、職員さんと僕の二人だけです。
ただでさえ、職員に間違われることがある人です。
通りすがりの方にとっては、職員二人が並んでいたようにしか見えなかったのではないかと。
販売が目的ならそれでも良いのですが、障害者の存在をアピールする上では失敗です。
いくら案内チラシを配布しているとは言え、これでは、ただお金を稼ぎに来ただけに終わってしまいます。

でも障害者は決して見せ物ではありません。
目立てば良いというものでもありませんし、それでは偏見を助長させることにも繋がります。
ありのままの自然体で、なおかつ障害の存在を知ってもらうにはどうすれば良いか。
お金を受け取ったのに芥子菜を渡すのを忘れ、あやうく二重売りしそうになって慌てる場面がありました。
お叱りこそ受けませんでしたが、違和感は感じられたと思います。
でもその違和感が、果たして障害によるものだと考えが繋がる人が一体どれだけ居られるのか。
発達障害に限らず、これは精神障害の当事者としては共通の悩みです。
障害が外見から見えないことの苦しみです。

この体験を宿題として持ち帰り、自分なりに何か良い方法はないものかと思案してみました。
その結果が、冒頭に掲げたカードのサンプルです。
このカードは、55mm×91mmの寸法で作っています。
一般的な名刺のサイズなので、名刺サイズの名札フォルダーを使えば、簡単に装着することができます。
健常者という表記にバッテンマークを付けることで、「健常者に見間違われる苦しみ」と「障害の特性を理解してもらえない苦しみ」の二つの意味を重ね合わせています。

これを日常的に付けて街を歩こうなんてことは考えていません。
特別に優遇されたい訳でもありませんし、ラベリングするという行為そのものにも反対です。
これは意識のある人が集まっている場で、話のきっかけとして使うものです。
先述の違和感をただの違和感として終わらせず、障害について話し合うきっかけになるように。
実はお互いに気付いていないだけの当事者同士が、お互いに手を取り合うきっかけになるように。
そして、この障害についての理解が社会全般に広がるきっかけとなるように。

僕たちの目的は、この名札を日常的に付ける社会ではありません。
こんな名札を使わなくても、障害の有無に関わらず、あらゆる人が対等に話し合い、配慮し合えることができる社会です。
名札一枚で何かが変わるとは思いません。
でも、変化の取っ掛かりとなるならば、やってみて損はないのかなと考えているところです。


     * * *


以下、昨日急遽延期になった井戸端会議の中で1分ばかり時間を頂戴してアピールするつもりだった中身です。
せっかく延期になったことですし、会議に出席しない人も少なくないですから、文書にまとめてみることにしました。

「わたしたちの宿題」
〜障害者権利条約についての学習会の報告に代えて〜


先日のSさん(※)からの呼びかけに応じて、Sさん、Nさん(※)、Tさん(※)と僕(※)の4名で、2月8日に京都市堀川今出川の西陣織会館で開催されました「共に安心して暮らせる京都デザインフォーラム」に出席してまいりました。
フォーラムの内容は、この2月から日本でも実際に効力が発生することになった「障害者権利条約」についての学習会でした。
そこで早速この時の学びを皆さんにも報告しよう…と思いましたが、やめました。
と言うのは、この4時間近いボリュームを短い時間で伝えるのは無理だし、意味のないことだと考えたからです。

代わりに一つだけ、実際にやってみてほしいことがあるのです。
小難しい話を一方的に長々と聞き続けるよりも、その方がずっと中身を理解しやすいし、「障害者権利条約」そのものを実体験できると思うからです。

今度のフォーラムに出席してみて僕自身が率直に感じたことは、これだけの長い時間をじっと黙って話を聞き続けることは、精神障害の当事者にとってこれほど酷なことはないのではないかということです。
じっとしていると妄想が止まらなくなる方も居られますし、鬱状態が悪化する方も居られましょう。
躁状態でじっとしていること自体が難しい方も居られますし、溢れ出す感情を長時間押し込めなければならないというのは、僕たちにとっては拷問にも等しいことだと思います。
では、精神障害に対する配慮が皆無なのかと言えば、決してそんなことはありません。
身体や知的、もちろん精神の障害に対しても配慮した結果、現状で一番ベターだと思える方法を採ったに過ぎません。
これがベストだとは誰も考えていません。

では一体なにが足りなかったのか。
それは、精神障害の当事者として、具体的な「合理的配慮」を提案することができなかったからです。
一体どうすれば、長時間の苦痛を味わうことなく、話を聞いたり、自分の思いを話したりできるのか。
それは、身体や知的の障害を持っている人たち、ましてや他人事だと考えている健常者に任せているだけでは、いつまで待っても解決しません。
僕たちが自分の言葉で、いまどんな配慮を必要としているのかを具体的に提示していかないことには、何も解決しないのです。

たとえば、今のこの井戸端会議。
最初から参加する気がない人も居れば、途中で我慢出来なくなって場を乱す人も居ます。
それは、その人だけの責任なのでしょうか。
これまでの人生経験の中で、このような話し合いに参加するだけ無駄だと感じるような出来事があったのかもしれません。
何よりも、他の人の話を黙って聞くことそのものが苦痛なのではないでしょうか。

では他人任せにしておけば良いのか。
今はそれでも構わないのでしょう。
でも本当にそれで良いのでしょうか。
ほっとハウスが存続の危機に立たされていることはご存知の通りです。
行政にお金が無いのは事実なのでしょう。
お金そのものが無い訳ではありません。
行政が「健常者の立場で」必要なことにお金を回すから、「障害者に回すお金」が無いのです。
自分にとって必要なものを大事にするのは、悲しいかな人間の性(さが)です。
だから他人任せにしていてはいけません。
自分にとって必要なことは、自分自身で声を出していかねばならないのです。

そこでみなさんに考えてもらいたい、たったひとつのこと。
どうすれば「みんなにとって心地よく」「みんなの考えを共有する」ことができるかです。
それは、このような会議という方法である必要はありません。
これは健常者のやり方なのです。
僕らには僕らのやり方があって良いはずなのです。

いきなりこういうことを言われても、何も思いつかないというのは当然のことです。
だから、今すぐ何かを言わなきゃいけないものではありません。
何もないところから引っ張り出す必要もありません。
これまでの人生経験の中で体験したことを思い出してほしいのです。
何かの拍子に思い出した時にでも、手元のメモなどに書き留めてもらえれば十分です。

「自分が困っていた時、こういう配慮をしてもらったら、とても助かった。」

具体的に種まきして育てるのは、皆でやっていけば良いのです。
まずはその種を提供してほしいのです。
直接「話し合い」に関係することでなくても構いません。
どんな配慮の方法があるのか、一つでも多くのアイディアを出し合うことができれば幸いです。
こういう体験こそが「障害者権利条約」の実践だと僕は考えています。

【井戸端会議用文書についての補足】
○「※」の箇所には実名が入ります。
○これは精神障害の当事者に向けて書いた文書ですので、
 広く一般の方に読んでもらうようには書いていません。
 他の障害や、いわゆる健常者と呼ばれる方々を区別したり、
 非難や中傷もしくは一方的な要求等をするものではありません。

テーマ : 広汎性発達障害
ジャンル : 心と身体

MacBookの輝度ムラ

20100310_1a.jpg
→pixivで見る

レティさん、頑張りすぎです。ヒィィィィィ(((( ;゚Д゚))))ィィィィィ!!
先週の降雪も凄かったですけど、今度の降雪はそれ以上のものでした。
なにせ、京都府南部に「大雪警報」が発令されたのですから!

2月13日(木)20時20分に発令された大雪注意報が、14日(金)10時15分に警報に切り替わりました。
4時間ばかり大雪警報が続いた後、14時44分に注意報にもどり、16時28分に注意報も解除になりました。
前回は割と通常通りの運行だった公共交通も今回は流石に影響が出た模様。
近隣ではJR奈良線が雪の重みで倒れた竹のために運転見合わせになり、近所では京阪バスの家具団地界隈の系統が一時運行休止になった模様です。
ホワイト・ヴァレンタイン?
むしろヴァレンタイン豪雪と呼びたいです。ヽ(`Д´)ノウワァァン!!

ラジオでも、用事のない人は外出を控えるように呼びかけていましたので、善良なる市民の一人として粛々と従わせて頂きました。
先週は学習会がありましたので途中で買い求めた長靴を助けにみぞれ模様の中を往復しましたが、今回はおとなしく自宅で作業を続けていました。
今回は平日だったので、休みたくても休めなかった人が多かったはずです。
昨日の雪も今朝はかなり融けて、あちらこちらの軒先で作られた雪だるまの他には、昨日の降雪を思い起こすものはありませんでした。

先週の雪かきで足下が悲惨なことになったので、今回は最初から長靴をはいていきました。
これで雪かきも大丈夫!
…と思っていたら、長靴の隙間から雪がポトリ。
油断大敵ですね。(´;ω;`)ブワッ


     * * *

20140215_001b.jpg

こちらが昨日の在宅作業の正体です。
見ての通り、MacBookのディスプレイの左半分が悲しいことになっています。
ディスプレイ下部に仕込まれているバックライトが、なぜか半分しか点いていません。
別に節電のために蛍光灯を外している訳じゃありません。
ディスプレイの半分が、さらに照明半分で、これが本当のフラクタル・デザイン? (゜゜)☆\(ーー;バキッ

まるで蛍光灯のようだと書きましたが、症状の方もまるで蛍光灯チックなのです。
というのも、この症状は継続的なものではなく、何かの拍子で正常な状態に戻るのです。
ちょうど冬場の蛍光灯が、最初のうちは不安定だけど、温まってくると正常に点灯するみたいな。
実際のところ、こういう状況が発生するのは朝などにMacBookを起動した直後で、いつの間にか治ってしまいます。
それで治ったかと思えば、長時間電源を切った後に起動させると再度この現象ががが。
今週に入り、この状況が繰り返されているのです。(´;ω;`)ブワッ

単純にバックライトの不具合であれば、ライトだけ新品に交換すれば済む話です。
と言っても、場所は液晶パネルの内部ですし、そもそもApple社の製品は意図的に分解できないような構造になっています。
スマートフォンをお使いの方でiPhoneを修理に出したら、修理する代わりに代替品を渡されたという経験をお持ちの方も居られるかと思います。
さすがにMacBookで代替品を渡されることはなさそうですが、メーカー工場でユニットごと交換するというケースが大半のようです。
店頭での修理と比べるとどうしても時間はかかるし、なにより費用がバカになりません。
既に無償保証期間が切れているなら、無理せず新品のMacBookを購入した方が堅実な選択です。
ジャンクパーツ探して自力で修理するとか、個人でやってるお店に依頼するとかすれば、正規ルートより安価で済むのだろうけど、必ずしも成功するとは限らないし、博打をするつもりもありませんから。(´・ノω・`)

何か対策がないものかとネット上を漁ってみましたら、どうやらバックライト本体以外にも原因がありそうなのです。
バックライトを制御しているインバータが故障している可能性もあるし、ハードではなくソフトの方の不具合が原因の場合もあるようなのです。
こうなるとバックライトだけ交換しても無駄。
大枚はたいて修理してもらったのに、一向に改善されないなんて悲しい事例もあるそうです。
逆に、サポートさんの指示する通りの操作をしただけで、ものの15分で復活したという事例もあります。
ソフトが原因なら、わざわざ修理に出さなくても自力で治せる訳ですから。

最初に試すのは、不具合の応急措置としてあらゆるパソコンにおいても定番な、システムの再起動。
単純にいつも通りに電源を切り、再び電源を入れるだけです。
これで治れば御の字なのですが…それで治るなら、最初から悩まないですよ?

次に試すのはNVRAM(PowerPC系MacにおけるPRAM)のリセット。
WindowsにおけるBIOSみたいなもので、OS立ち上げに必要な最小限の情報を記憶しているメモリです。
ちなみにBIOSは、メモリではなくOS立ち上げに使うプログラムのことなので誤解のありませんように。
こちらのやり方は、起動時に「option」「command」「P」「R」を同時に押すというもの。
起動音がもう一度鳴れば成功です。
こちらの方は確かに効果があり、何度かは不具合が解消しましたが…やはり完全解決には至りませんでした。

続くはSMCクリア。
Intel系Macで電源周りの最小限の設定を管理をしている部分です。
電源が取り外しできるモデルであれば、コンセントとバッテリーを外して15秒ばかり放置すれば良いのですが、バッテリーの取り外しができないモデルを使っているので、そういう訳にもいきません。
この場合は、ACアダプタを付けた状態で電源ボタンと「shift」「control」「option」を同時に押すことになっています。
結果は…お察しください。( ;∀;)

Windows7を使うためにBootCampをインストールしているので、設定の競合を疑ってBootCampを最新のものにアップグレードしてみたり。
外部光センサーが悪戯している可能性があるというので、部屋の中で使う向きを変えてみたり。
スリープモードから復帰すると治るというので、スリープ機能の設定をいじってみたり。
部屋が寒いせいかと暖房で温めてみたり、ほこりが悪さしているのかもと通風口の掃除までやってみましたが、やっぱりダメ。
あと試していないのは、完全に初期化してOSのインストールからやり直してみることぐらいです。
やれないことはないけど、これで空振りだったら相当にヘコみそうなので、違う意味で怖くて試していません。

今のMacBookを使い始めて、かれこれ4年になります。
自宅に限らず、あちこち持ち歩いては便利に使っていたのですが、これまで特に故障らしい故障もありませんでした。
PowerPC系のG3のデスクトップはMacOS9とSCSI機器用に残していますし、G4のMac miniは今でもイラスト制作用に現役です。
いずれも故障知らずで問題なく動作するのですが、今のMacBookと比較すると処理速度の遅さは否めません。
それでも画像処理に関しては今でもG4のMac miniの方が秀でているあたり、CPUの特性の違いなのか、デスクトップ型とノート型の違いなのか、なんとも興味深いところです。
ユーザーの性格によるものなのか、良い個体を引き当てる運に恵まれているのか、世間一般で言われるような「ご臨終」という事態に至ったことは一度もありません。

ディスプレイの輝度ムラと言っても、色の管理をするとかでなければ直接作業に悪影響を与えるものではありません。
ストレスは相当たまりそうですが…。(苦笑)
修理に出すぐらいなら買い替えた方が良いと言っても、買い替えは流石に躊躇します。
金銭面の問題もありますが、何よりも今使っているMacBookがRosettaの動作する最後の機種らしいのです。
Rosettaは、Intel系MacでPowerPC系のプログラムを動かすための互換プログラムです。
Rosettaが使えないということは、PowerPC系時代のソフトが使えなくなってしまうということです。
いくらPowerPC系の機種を残しているとは言え、これは流石に不便です。
パソコン本体より、ソフトの乗り換えの方が高く付きそうですし…。

長い時間使っていると動作が安定してくるので、冬場のバイクを扱う感覚で使えばなんとかなるかな…とか思っています。
バイクのエンジンのかかりにくさは冬場特有の話なので、このディスプレイの不安定さも冬場特有の話であれば良いのですが。
いざとなれば、手持ちのディスプレイを外付けするという手もありますし。
あまり想像したくない光景ではありますが(汗)
大枚はたく決断をするには勿体ない状況ですし、しばらくは騙し騙しで様子を見ようかと思います。(´・ω・`)

テーマ : Mac
ジャンル : コンピュータ

障害者権利条約の学習会をきっかけにして

2月8日に京都市堀川今出川の西陣織会館で開催された障害者権利条約の学習会に参加して以来、心の中の主電動機が弱界磁段へノッチアップした模様です。
エンジンでいうところの過給機作動…自動車で俗に言う"ターボ"とは、ターボ式過給機のことらしいです。
電車のことは幼少期から詳しいけど、自動車の関する知識は割と偏りが激しいひとです。

その学習会については、こちらに掲載しています。
「障害者権利条約に批准はしたけれど…」
http://kazuya075.blog12.fc2.com/blog-entry-337.html

帰宅後は疲れの方が大きかったのですが、夕食に頂いたビールで良い具合にアルコールが回ったおかげか、その日の晩のうちに記事を書き上げてブログにアップ。
これだけならアルコールの成せる業とも言えるのですが、翌日から家に居るのがもったいないぐらいの勢いで、あちこちに出かけては、この話ばかりをしているので、どうやら僕の中にある何かのスイッチが入ったみたいです。
ここのところ、どうにも墜落寸前で低空飛行をしていた訳ですから、決して悪い状態ではありません。
ただ、テンションが上がりすぎると反動も壮絶なので、勢いに任せて駆け回らない程度にはブレーキをかけているつもりです。

学習会をきっかけにスイッチが入ってどうなったか。
それまでネガティブ思考が支配していた行動パターンが、一挙にポジティブ思考に反転しました。
まず、学習会の翌日の日曜日…いつもの教会でのお話。
この日は、天皇制について考える集会が午後から教会で開かれる予定でした。
対人恐怖症に加え、じっと人の話を聞いているのが苦痛なので、主日礼拝が終わったらすぐに帰宅するつもりでいました。
帰り支度をしていたら携帯電話が鳴り、個人的事情でしばらく教会に残ることになりました。
これも何かの導きなのかと観念して、誘われるがままに参加したのですが…。
…一言でたとえるなら、20年前に若返った自分がいました。
大学生協や保育現場でバリバリ活動していた頃の自分です。
その後の20年の成長がプラスされているので、むしろパワーアップしているとも言えましょうか。
正直、自分でも驚きました。

変化は月曜日も続きます。
やはりこの日も、学習会の報告だけして帰るつもりで、いつもお世話になっている障害者地域活動支援センター「ほっとハウス」(宇治市小倉)に出かけたのですが、今度はMacBookに関するヘルプの電話が入り、その対応のためにそのまま残ることになりました。
この際だから白状しますが、僕自身が一部の利用者と顔を合わせるのが嫌で、長居しないようにしていました。
大きな声でわがままを言う人が大嫌いで、しかも狭い部屋の中ですから余計にストレスがたまります。
相性が合わないのだから無理して一緒に居ることもないと思い、ずっと避けていたのです。
この面でも変化が現れました。

話は学習会の前日の金曜日まで遡ります。
重い統合失調症のため配慮を欠く言動を繰り返す女性利用者が、躁鬱病のために沈黙モードになっている韓国籍の男性利用者に無視されたことに腹を立て、言い争いになる場面がありました。
その中で、その女性利用者は「韓国に帰れ!」と言い放ったのです。
この施設には、在日韓国人の方も居られれば、その身内の方も居られます。
ましてや、差別される側の人を守るべき立場にある施設内での出来事です。
到底許される発言ではありません。
ところが、その時点で誰も注意する人が居なかったので、納得がいかなくて月曜日になって所長のTさんに事情を聞きました。
すると、逆に切り返されました。
「あなたこそ、その場に居たのに何もしなかったじゃないか!」

最初はカチンと来て、言い合いになりそうになりましたが、どうにか自力で抑えました。
実はこういうことができるようになったのも、この10年ばかりの話です。
それで、どうにか着地点を見つけようと、あちこち話をぐるぐる回っている間に、別の方が仲立ちに入ってくれたこともあり、話は収束に向かいました。
その中で、Tさん自身も告白なさいました。
「僕自身は怒っているつもりはないのに、よく怒っていると誤解されることがあって、自分でも困っている。」
涙がこぼれました。悲し涙ではなく、嬉し涙です。
そして、金曜日の暴言はその日に始まったことではなく、以前から続いていて解決のための話し合いを続けている真っ最中だったことも知らされました。
結局のところ、僕もTさんもお互いの言動に間違いはないけど、お互いに配慮が欠けていたのだと認め合うことができました。

これらの話を経て、僕も随分と感じ方が変わりました。
それまで、人の注意も聞かずに大声を上げるだけだと思っていた人も、大声に至るまでの過程が理解されていないことが周囲に誤解を招いていたのだと。
それは知的障害や発達障害の人がパニックになって、まるで暴れているように見えるのと同じことです。
本当は言いたいことがあるのに、それが言えない、もしくは言ってはいけないと我慢している状況。
自分の思いと周囲の思いがどうしても重ならない時、それが大声や暴言という形で現れているのだと。
目で見える形で表現する人ばかりとは限りません。
弱者に対して暴力を振るう行為も、自らが自らの身を傷つける行為も、負の感情が外に向かうか内に向かうかの差だけで、実は同じ行為の裏表なのです。
そのように理解できるようになった時、僕の中にたまっていた負の感情は随分と減りました。
仲良く…というのは流石に無理ですが、少なくとも無駄に腹を立てることは少なくなりました。

ここまで整理できたのが火曜日の話。
なので水曜日はそろそろ終わりだろうと思っていたら、また大きな変化が訪れました。
きっかけは、やはり電話です。
もともと、先の学習会の世話人であるYさんにお礼を言う機会を探していたのですが、普段は仲立ちに入ってくださるKさんが風邪でダウンしていると知らされ、Yさん自身はJCIL本体におられるとのことなので、直接伺うことにしました。
と言っても、僕自身はJCIL本体との関係が薄いので、JCILの運営しているコミュニティサロンの方へ伺わせて頂きました。
実は、このこと自体が奇跡にも等しい話なのです。
なぜなら、昨年の春に障害に対する配慮を巡ってサロンのリーダーさんと言い争いになり、ずっと仲違いしていたのです。
お互いに挑発こそしないだけで完全な冷戦状態。
僕自身ひとのことは言えませんが、一度喧嘩してしまうと修復が難しい者同士が、喧嘩から冷戦状態に至ったと言えば状況が見えてきましょうか。

サロンの玄関先では、リーダーさんが就労支援で続けているロウソク作りの準備をしていました。
前なら、お互い無視して気まずい空気を残すだけでした。
それが僕の方から自然と声を出すことができたのです。
それも、にこやかに!
自分でも正直驚きました。
こんな風に声を出したのは、もしかすると前の会社で仕事が続けられなくなって以来なのではないかと。
サロンに集まっていた懐かしい面々も、その変化ぶりに驚いていた様子です。
リーダーさんと直接会話するのは流石に無理ですが、半年以上ぶりに冷戦状態が終結したことこそが画期的。
皆、そのことを喜んでいる様子でした。

YさんはYさんでKさんから僕が来ることを聞いていたらしく、JCIL本体の方で待っていたようです。
僕はYさんが遅めの昼食をサロンでとることを知っていたのでサロンで待っていたのですが、ここでも「すれ違い」が発生していました。
Yさんがサロンの方へ電話して来られて、初めて「すれ違い」だと気付きました。
これなど分かりやすい話だと思いますが、これまでの障害当事者運動の中で何度も直面して来た「障害者と呼ばれて来た人」と「いわゆる健常者と呼ばれる人」との間にある「壁」は、実際のところ、こういうことの積み重ねが生んだ誤解と偏見の産物なのかもしれません。
Yさんが遅めの昼食を頂いているそばで、お話をするチャンスを得ることができました。

Yさんは、60年に渡って「非暴力による運動活動」を貫いて来られた方です。
今の安倍首相は、武力をもって暴力を封じ込めることを「積極的平和主義」だとしていますが、これは完全な誤用です。
そもそも「消極的平和主義」とは自然発生的に争いがない状態を維持することを言い、本来の意味での「積極的平和主義」とは、対立が発生しても武力に頼らず話し合いによって解決できる関係を構築することを言います。
このような話をすると、理想論だと一笑に付される方も少なくないのですが、そういう方こそYさんの生き様を知って頂きたいです。
Yさんは、骨形成不全症のため自力での歩行が困難で、長らく電動車椅子を使った生活を送っています。
骨折しやすい体質でもあるため、健常者であればせいぜいよろめく程度の衝撃であっても、命にかかわる大怪我になってしまいます。
Yさんにとっての非暴力とは、理想でもなんでもなく、自身が生き延びるための現実に他ならないのです。
Yさんはいつも言います。この歳まで生きてこれたことが、まず奇跡だと。

僕には、自分の考えを伝えることはできても、相手の思いを理解することに困窮するという特性を持っています。
発達障害から来ている「こだわり」特性が、相手の話を理解する妨げになっている面も確かにあります。
でも実際には、相手の持っている考えや思いを洞察することが難しく、表面上の言葉や感情に左右されてしまう特性が強く出ているのです。
語気の荒い人を見ると怖い人だと誤解し、否定的意見を言われると自分の全存在が否定されたような衝撃を受け、相手が考え込んでいるだけなのに無視されたと思い込んでは無用な喧嘩をするという具合です。
「理屈では分かっているのに感情がついていかない」という言い方を今までしていたのですが、こちらの方がより明確かと思います。
なので、当事者同士で差し向かいで話をするより、第三者に交通整理をしてもらった方がコミュニケーションが取りやすいということが見えてきました。
だから、もし僕自身が合理的配慮を必要としているならば、会話の仲立ちという「介助」を必要としているのではないかと思うのです。
このことがクリアできれば、地域や職場、学校などで繰り返されてきたトラブルは大きく軽減されるのではないかと。
社会の中で普通に暮らしていくことができるのではないかと考えたのです。

百戦錬磨の闘士にしてみれば、僕の考えはまだまだ幼稚で重みがないと感じられるのは当然のことと思います。
Yさんから早速「君と話をするには俺たちが配慮しなくちゃいけないのか?」と切り返されました。
身体障害者に対する介助の現場において、「お世話する・お世話される」という「介護」の関係ではなく、「指示する・指示により動く」という「介助」の関係を作りあげることの難しさと直面しながら、今の介助の仕組みを白紙から作り上げて来られた方です。
まずは専門的な知識と経験が必要であろうこと、人材を育成しても必要な人数を確保するのは難しいこと、何よりも予算も支援も何もない状況では、ただの無い物ねだりに終わってしまうことをズバッと指摘されたのです。
全くその通りです。悔しいと思う反面、真剣に考えてくれているのだと感じました。
もっとも、その場でそこまで飲み込めたら苦労しない人ですから、そこまで整理がつくのには随分と時間がかかりましたが…。

Yさんは、たとえば…と話を続けました。
第三者の立場であれば客観的に判断できるというのであれば、お互いに第三者として立ち会うことはできないのかと。
当事者同士という関係では難しいことでも、第三者という立場であれば関わりやすいという点もありましょう。
ならば当事者の集まりで連携を作り、必要に応じて助け合う体制を作ることは可能なのではないかと。
それと連動する形で、発達障害がある人にもない人にも、どういう関わり方をすればお互いが安心して暮らせるようになるのかを学び合う場になるのではないかと。
その輪を広げて行けば、障害の有る無しに関係なく安心して暮らしていける社会を構築していけるのではないかと。
もちろん、そんな簡単な話ではないことはお互い承知の上での話です。
だから諦めるのではなく、こういう話を積み重ねていくことこそが大事なのだと思うのです。

Yさんは、8日の学習会の場でも話して居られました。
自ら障害者として60年生きて来たけど、障害者の当事者だと言いつつも、実は身体障害のことしか見ていなかったこと。
隠すことができない身体上の障害のために常に差別と偏見に晒され続けた身としては、精神障害者の言う「障害が周囲から見えないことの苦しみ」というのが理解できなかったこと。
知的障害や精神障害に対して、理解がなくて恐怖心すら抱いていたことを率直に告白されました。
自らが抱える障害が重いほど、どうしても他の障害に対する理解は疎かになります。
これは障害に関わらず、社会の中に存在するあらゆる困窮についても同じことが言えると思います。
一方的に要求するだけでは、その溝は決して埋まることはありません。
お互いがお互いの立場になって考えることが求められているのだと思うのです。
ようやく、その出発点に立つことができたと確認できた貴重な機会だったのではないかと思います。

学びの場から一週間。
熱病のようなものであれば、そろそろ治まる頃合いでしょうか。
果たして、今回の変化は一時的なものだったのか。
一時的なものだと片付けてしまいたくないです。
なので、今回も文章にまとめてみた次第です。
この流れを継続的なものとしていくためにも、息切れしない程度に抑えながら、模索の動きを続けていきたいと思います。

テーマ : 広汎性発達障害
ジャンル : 心と身体

プロフィール

かずや(京ヤワ)

Author:かずや(京ヤワ)
河津屋京柔/かずや(京ヤワ)は、京都府下在住の東方好きなMacユーザーです。
昔は電車小僧。今は鉄道おじさん。多分この先も?
発達障害の一つ、ASD(自閉症スペクトラム)であることを知ったのは、40歳手前のことでした。
開き直るほどタフじゃないけど、生きるのが随分と楽になりました。
毎週日曜日にキリスト教会に通う程度には信心深いようです。
ちまちまとパソコンでお絵描きしたりしていますが、最近は寡作気味です。

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