転んでもただでは起きない?

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本居小鈴「うふふ、転んでもただでは起きないよ♪」

はじめて小鈴ちゃんを描いてみました。
最近、「深夜の真剣お絵描き60分一本勝負」というタグの付いたイラストをpixiv内で見かけることが多いのですが、僕には絶対無理!
まず最初にパソコンを立ち上げて、埃の掃除をはじめたり、本棚の整理をはじめたり、冬の寒さで冷えた手の指を温めたり、花粉症対策の甜茶を飲んだりして、ようやく観念して描き始めるまでが「60分一本勝負」みたいな人なので。(゜゜)☆\(ーー;バキッ

描き上げるまでの時間ですか?
多分、50日ぐらい。
構想が40%、気合い入れが30%、現実逃避が20%、突発的整理症候群が10%。
あれ? 描く時間は何処に?? ( ゚Д゚)


     * * *


以下、前回の記事を書いた後も意識下で燻っていた闇の炎がダークフレイムマスターしそうになったので、ベクトル変換を試みてみた結果のログファイル的な何かです。
きっと読んでも面白くないです。
興味のない方はスルー推奨です。



【井戸端会議について考える ~ほっと賃をめぐる話し合いから~】

2月21日の井戸端会議から、どうにも眠れぬ夜を過ごしています。
とてつもない疲労感に襲われた後、今度はふつふつと怒りの感情すら湧き起こっています。
負の感情に支配されることは精神衛生上とても良くないです。
ストレスを発散させるという方法もありますが、せっかくのエネルギーを無駄に消費するのも勿体無いので、正の方向へベクトル変換を試みることにしました。

原因は割とはっきりしています。
本来は憩いの場であるはずのほっとハウスで、心に暗く重いものを押し付けられる思いを幾度もしているからです。
それは一体どのようなメカニズムで発生しているのか。
どのような解決方法が考えられるのか。
眠れぬ夜を有効活用すべく、自分なりにまとめてみることにしました。


【1】話し合いの場における問題点

井戸端会議は、ほっとハウスの伝統の一つです。
スタッフ主導でなんでも決めてしまうのではなく、当事者同士が当事者目線でスタッフと一緒になって対等に話し合う。
とても良いことだと思います。

井戸端会議が始まった当初は、開くことそのものに意義があったと思うのです。
その考え方は決して間違っていないと思うのです。
問題なのは、時が流れ利用者の意識が大きく変化してきたのに、旧態依然のまま昔のやり方を踏襲していることです。

ほっとハウスの開設当初は、何もないところからのスタートだったので、得るものこそあっても失うものは何もありませんでした。
ところが施設としての認可を受け、環境が整った今の姿しか見ていない利用者にとっては、いかにして自らの既得権益を守るかという話に終始する傾向が強いです。
このことを責めてはなりません。
既にある"あたりまえのもの"を手放すことは、誰だって怖いのですから。
話し合いが難しくなるのは当然の帰結です。

伝統を守ることも大事です。
でもそれ以上に大事なのは利用者自身であり、それを受け入れるほっとハウスを存続させることだと思うのです。
健常者でさえストレスを抱えて病気になりそうな議題を続けているのです。
それを精神障害者の当事者に強いているのだとすれば、このことの方が問題だと思うのです。

当事者の一人として、最近の井戸端会議の中で感じている問題点をいくつかピックアップしてみたいと思います。

①考えがまとめられない
統合失調症等を抱える身としては、刻々と入ってくる情報を適切に整理し、自らの考えを再構築するという行為そのものが苦痛ではないかと思うのです。それが適切にできるなら、普通に健常者として生活しているはずです。それを会議の名のもとに強要しているなら、二重に傷つけていることにならないでしょうか。

②記憶が続かない
薬剤等の副作用もあって、記憶が欠落したり持続しない人も居られます。話も一本筋には進みませんから、別の話しの筋に移ってからまた元の話しの筋に戻ってきた時、果たして元の話の続きだと理解できているのでしょうか。

③話の方向性が見えない
うつ病を抱える身としては、先行きの見えない話を延々と続けられることが他のひと以上の苦痛となります。発達障害を持つ身としては、どのように話の流れに乗れば良いのか分かりません。逃げ出したくなるのも当然です。

④マナーが守れない
人が話しているのを遮ったり、議題と関係のない話を延々と続けることは明らかなマナー違反です。本人は正しいことを言っているつもりでも、誰かに対する非難や中傷、一方的な要求を強いることも他の人には不愉快です。何度注意されても繰り返します。これもまた障害特性のひとつなのですから。

⑤障害者に対する過大評価
障害者と言っても障害特性を除けば普通の人間です。言い換えれば、健常者と何の変わりもない、ごく普通の人間なのです。障害者の言うことだから秀でているということもないし、障害の有無に関わらず考えなしの言動をすることも当然あり得ます。障害特性から熟慮することそのものに困窮している身となれば、尚のことです。当事者目線というのは、当事者に丸投げすることではありません。同じ対等な人間として、対等に話し合うことにすぎないのです。

⑥障害者に対する過小評価
同じテーブルに付かせることが平等だと履き違えていないでしょうか。これは強者の論理です。狐には皿で料理を出すように、鶴には壷で料理を出すように、合理的配慮があってこそ、はじめて平等が成り立つのです。同じ皿で出せば見てくれが同じだから満足してくれるだろうという感覚なのであれば、それは傲慢であり、差別そのものなのです。小手先だけの対応に憤りを感じている障害者は決して少なくありません。自己満足的な対応は、相手の反感を買うだけなのです。

⑦合理的配慮が不足している
これだけの配慮を司会者一人に委ねることは不可能です。少なくとも調理作業の片手間でできることではありません。また、調理そのものが参加者の意識を拡散させる原因にもなっています。精神障害者を会議の場から排除することなく話し合いを進めるのが目的なのであれば、実は普段の日中活動以上の手間がかかるし、それなりの介助者が必要となるのです。


【2】ほっと賃についての誤解

前回から引き続き井戸端会議の議題になっている"ほっと賃"について、話し合いを持つならば、まずはその仕組みを理解しなくてはいけません。
残念ながら、その仕組みをきちんと理解している利用者は決して多くありません。
話し合いの前提条件が整っていないのですから、話し合いが迷走するのは当然の成り行きです。

"ほっと賃"について整理するとこうなります。

①ほっとハウスを施設として認可してもらう時点では、共同作業所という枠組みしか存在しなかった。そのため、工賃の支払い義務が発生した。
②障害者自立支援法…現在の障害者総合支援法では、地域活動支援センターという枠組みが定められたので、工賃の支払い義務は消滅した。
③ほっとハウスでは収益を伴う日中作業を基本的にしない方針なので、作業収益はほとんど存在しない。
④現在の"ほっと賃"は、利用者が毎日支払う飲食費を割り戻すことで維持している。つまり"ほっと賃"は、世間一般で"つもり貯金"と呼ばれているものと実質的には同じ。
⑤"ほっと賃"のシステムを維持するために、スタッフの業務が煩雑になっている。ほっとハウスの運営そのものが逼迫している状況下で、利用者の日中活動や生活全般への支援を犠牲にしてまで続けなくてはいけないほど重要性のある制度なのか、きちんと再考する時期に来ている。


これらのことがきちんと理解されていないため、井戸端会議が無駄な迷走を続けています。
特に次の点がきちんと理解されていないことは深刻です。

①ほっと賃は「つもり貯金」であり、収入ではない。
②つもり貯金ができるのは、貯金できるだけのお金を持っている人だけ。


この二つの点が整理されていないため、「ほっと賃がほしい」「お金は払いたくない」という意見が対立する構図になっていて、「ほっと賃を廃止する」ことの意味が完全に誤解されているように感じます。
そもそも、ほっと賃の話し合いについて、どのような方向で話を進めていくのかという道筋がまったく示されていません。
当事者同士の話し合いに委ねたいという気持ちは理解できますが、これではいたずらに利用者同士の溝を深めるばかりです。
話し合いを円滑に進めるためにも、井戸端会議でこそ合理的配慮を実践してもらいたいと願うのが、精神障害の当事者の一人としての率直な願いです。


【3】話し合いの場における合理的配慮とは

以上の点をふまえて、いくつか具体的な提案をしてみたいと思います。
すぐに実現できるものもあれば、そうでないものもあります。
また、これはあくまでも個人的な意見ですから、これが正解という訳ではありません。
話し合いを円滑に進めるための方法を探るためのステップとして活用して頂ければ幸いです。

①健常者の真似をすることが目的ではない

私たちが望んでいるのは、健常者と同じように立ち振る舞うことができる社会ではありません。
健常者と同じ方法に頼らずとも、同じ程度の努力で同じ目的が達成できる社会です。
健常者の真似をさせることで目的を達成できていると認識するのであれば、それは一人の人間として幸福を追求する権利を消極的に奪う行為に他なりません。
本当の意味での当事者目線に立つならば、健常者の枠組みに押し込めることではなく、既存の枠組みに囚われない新たな価値観と方法論の構築が求められているのです。

②時間と場所の設定を見直す

現在の井戸端会議は、メンバーの最大限の出席を促すことに力点を置いた会場設定をしています。
この考え方は決して悪くはないのですが、メンバーの出席さえ多ければ良いという考えは間違いです。
個々のメンバーが落ち着いた環境で積極的に対話ができることが目的でなければ、ただの報告と承認の場に終わってしまいます。
報告と承認だけが目的ならば、苦しい思いをしてまで会議に参加する意味がありません。
言質を得ることが目的ならば、それは既に話し合いではありません。

人が会議に出たくないと考える一番の理由は、長時間にわたり物理的にも精神的にも拘束されるからでしょう。
逃げ場のない場所に閉じ込められ、苦痛にさらされ続けることが分かっているならば、それを避けようとするのは当然の判断です。
まずはこの苦痛を取り除くことを考えねばなりません。

もし適切な合理的配慮を実践するならば、介助者が確保できる時間帯でなくてはなりません。
最初から会議に参加するつもりがない人が混じったままの状態で会議を始めることも好ましくありません。
意識のある人であれば会議中に場を乱すような行為は慎むものですが、それを当然のマナーだと考えている人ばかりではありませんし、自分だけが仲間外れにされていると思い込んで、わざと気を引くような行動に出る人も居ます。
幸いなことに、ほっとハウスにはいくつかの部屋がありますから、参加状況に合わせて部屋を選ぶことも可能です。

出席者の頭数だけを増やせば良いということではなく、中身を充実させることにこそ力点を置くべきです。
意識のある人は調整してでも出席しようとしますし、意識のない人を無理やり同席させたからと言って意識が高まる訳でもありません。
もし意識を高めることを目的にしたいのであれば、まずは日常的な会話の中にそういう話題も少しずつ織り込んでいくという手法を考える必要があります。
とにかく無理強いはいけません。

③ルールが守れない人に対する合理的配慮

話し合いを持つためには、円滑にコミュニケーションができることが大前提です。
コミュニケーションとは「聴く、見る、感じる」「記憶する、整理する、考える」「話す、書く、表現する」の三つの要素で構成されており、このどれが欠けても支障が発生します。
精神障害者が精神障害者に区分される一番の理由は何でしょう。
適切な方法でのコミュニケーションを維持し続けることが困難なため、日常生活を送る上で大きな支障が発生しているからなのではないでしょうか。

入ってくる情報が適切に処理できず、同じ質問を繰り返したり、間違った意味で解釈していることを指摘されても理解できない人も居ます。
主題から外れた話を延々と続ける人も居ます。
他人に対する非難や中傷を繰り返す人も居ます。
言葉にできない思いが爆発して暴力的表現に至る人も居ます。
グループワークを実施するにあたり、事前にルールを決めて守れない人は注意し、それでも守れない場合は最初から会議に参加させないという対応が一般的です。
もしくは、万人を受け入れるという理想にこだわるがゆえに無秩序状態になり、建設的な話し合いになるどころか、負の感情ばかりが蓄積して容態が悪化する人さえも居ます。

ルールを守れない人を排除しても解決にはなりません。
ルールを守れない人に我慢しているだけでも解決にはなりません。
ルールを設けることが悪いのではありません。
守れない人が居ることを前提にしたルールを作ることにこそ問題があるのです。
最初から守れないことが分かっているルールならば、守れない人が居ることは当然の結果であり、すなわち個人の責任ではないことが明白です。
ルールは全員が守ることを前提としたものでなくてはいけません。
守れないルールを一方的に押し付けることこそが、差別問題の根源なのです。

特定の人にだけ不利益を強要することのないような環境を整えること。
これが合理的配慮なのです。

④話し合いの場に参加できない人への配慮

話し合いに参加できない人は、ただ面倒から逃げているだけなのでしょうか。
ルールが守れないことで排除された人も居るでしょう。
ルールを守らない人に傷つけられた結果として参加をためらう人も居るでしょう。
話し合いの先に明るい希望が持てなくて、最初から諦めている人も居るでしょう。
もちろん就労や家事等で物理的に参加できない人も居ます。

コミュニケーションが「聴く、見る、感じる」「記憶する、整理する、考える」「話す、書く、表現する」の三つの要素で構成されていることは、先に述べた通りです。
これを短時間に凝縮して効率良く行うものが「話し合い」です。
逆に言えば、効率が悪いのであれば話し合いという手段を選ぶ必要もありませんし、目先の効率の悪さに惑わされることがなくなれば、本当の意味で効果が期待できるコミュニケーションが可能だということです。

最初に考えられるのは、「聴く、見る、感じる」「記憶する、整理する、考える」「話す、書く、表現する」の三つの要素を分解し、一つずつ丁寧に行う方法です。
たとえば、一回目は自由に意見を出し合うだけで議決はせず、二回目は集約された意見を整理して高次元での合意を目指した提案にまとめ、三回目で承認を得るという方法です。
全員が一度に集まる必要はありません。
一回目はヒアリングやアンケートで代替が可能ですから、個々の特性に応じた方法を個別に選択できます。
二回目については、既に出ている意見を整理するだけですから、客観的判断に基づいて情報を整理できる人間に託してしまうことが可能です。
三回目についても承認だけなら全員が一度に集まる必要がなく、多数決という手段をとらなくとも、一つ前の段階に差し戻して再検討するという方法もあるのです。

⑤日中活動の本当の意味

大切なことは、すべてを可視化することです。
密室で話が進むようでは意味がありません。
一つ段階が進むごとに、掲示板等で進展状況とその中身を知らせる必要があります。
可視化の際には、分かりやすく説明することも重要です。
話し合いという短時間の緊張した空間では難しかった理解も、時間をかけて丁寧に取り込むことで理解がしやすくなるでしょう。

これは正直なところ、とても面倒な作業です。
時間も労力も根気も必要です。
だから、どこもやりたがらないのです。
面倒なら最初からやらなければ良いです。
上層部で意思決定し、トップダウンで話を進めれば簡単なことです。
だから面倒なことを嫌う企業や諸団体はトップダウンで話を進めたがります。
その結果、様々な弊害や軋轢に苦しめられた人々が、結果的に精神に障害を持つようになるのです。
先天的な要素もありますから、これがすべての原因だと言い切るつもりはありませんが、ほっとハウスが苦痛の再生産の場になるようでは、せっかくの憩いの場が台無しです。

日中活動を暇つぶしの作業を提供することだと履き違えている施設はいくらでもあります。
わずかな工賃を得るために、日々、施設運営側の自己満足に付きあわされ続けている精神障害者の実態に対するアンチテーゼが、このほっとハウスなのだと思うのです。
憩いの場は暇つぶしをする場所ではありません。
暇つぶしがしたいだけなら、そういう場所…ただし有償ですが…いくらでもあります。
暇つぶしではない何かを求めているからこそ、ほっとハウスは必要とされているのではないでしょうか。

暇つぶしではない何かは、一人ひとり違うはずです。
そして、それを誰からも邪魔されずに落ち着いて向き合うことができることこそが、ほっとハウスの魅力なのではないでしょうか。
休む人が居てもいい。
ゴロゴロしている人が居てもいい。
そして、自らの役割を見出して活躍する人が居てもいい。
ほっとハウスが生まれた当初は、それが自然と保たれていたのではないでしょうか。
ほっとハウスは便利屋でもなければメイド&執事喫茶でもありません。
それを期待している人は、そういうものを提供してくれる場所…ただし有償ですが…いくらでもあります。
無償だからと欲しいだけ貪ることを認めていては、ほっとハウスが潰れるのは時間の問題です。
それは福祉でも権利でもありません。
ただの我が儘に過ぎないのです。

⑥交通整理は指導ではない

もし今のほっとハウスに問題があるとすれば、日々の活動の中で交通整理がきちんと行われていなかったからではないでしょうか。
個々の特性が違うように、個々が必要とする支援も当然異なります。
無差別平等にサービスを受けることが正しいと考えているならば、それは大衆迎合の発想です。
果たして体重30kgの人と90kgの人が同じ量の食事を必要とするでしょうか。
同じ60kgの人であれば、全員が同じ量の食事を必要とするのでしょうか。
多すぎる食事は病気の原因にしかなりません。
納得しないからと欲するままに食事を与えるならば、それもまた虐待だと障害者権利条約では明確に規定しています。
合理的配慮とは、当事者の我が儘を許すものではなく、自らの努力で幸福を追求するために必要な最低限の環境を整えることを保障するものです。
最低限の環境とは、健康維持はもちろんのこと、自らの努力で幸福を追求する機会を保障することも含まれています。
もし当事者自身が、他人に要求を受け入れてもらうことばかりに意識を集中させるならば、それは幸福を追求する権利を自ら放棄していることに等しいのです。
当事者自身の意識改革がなければ、本当の意味での幸福は、ますます離れていくばかりです。

環境さえ整えれば潜在的に持っている能力が発揮できる人が多いからこそ、障害者権利条約は合理的配慮を明文化しています。
それは就労の義務ではなく、幸福を追求する権利です。
こんな基本的なことが守られていない現代社会だからこそ、ほっとハウスは必要とされていると思うのです。
そして、そのことはもっと社会にアピールしてよいと思うのです。
ほっとハウスの存続問題となると、どうしてもお金の話に偏ってしまうのですが、それは与えられることに慣れてしまった当事者の実態の映し鏡にすぎないのではないでしょうか。
お金が無いなら無いなりの運営の仕方があります。
そのためには、当事者自身も今まで以上の努力を課せられることになりましょう。
それは社会に媚びるための訓練ではありません。
我慢の練習でもありません。
新たな生き方の模索です。
今本当にしなくちゃいけない話とはそういうことであり、これは意図をもって交通整理しなくてはなりません。

ただ当事者に話し合いを呼びかけるだけでは、何も変わりません。
道筋を明確にした上で議論を積み重ねることのできる最低限の環境を整えることが緊急の課題だと考えます。
そのためであれば、自分の持てる限りの能力を費やして協力したいと考えている当事者の一人です。
健常者と同じような働き方はできなくとも、何もできない訳ではありません。
公的な支援が得られなくとも、手弁当で活動を続けている当事者グループは、京都にもたくさんあります。
こういう風に考えることができる人が増えてゆけば、ほっとハウスの運営は再び安定したものに戻るものと信じています。

(※この記事へのコメントは、SNS上にて受け付けています。)

テーマ : 広汎性発達障害
ジャンル : 心と身体

プロフィール

かずや(京ヤワ)

Author:かずや(京ヤワ)
河津屋京柔/かずや(京ヤワ)は、京都府下在住の東方好きなMacユーザーです。
昔は電車小僧。今は鉄道おじさん。多分この先も?
発達障害の一つ、ASD(自閉症スペクトラム)であることを知ったのは、40歳手前のことでした。
開き直るほどタフじゃないけど、生きるのが随分と楽になりました。
毎週日曜日にキリスト教会に通う程度には信心深いようです。
ちまちまとパソコンでお絵描きしたりしていますが、最近は寡作気味です。

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