バリアフリーを考える

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最近、JCILのYさんからの依頼で、物書きのようなことをしています。
言い回しが面白い上、話の組み立てがしっかりしていると評価してくださっています。
本人的には相も変わらず駄文をバラ撒き続けている感が強いのですが、このように評価して頂いた上で、実際に原稿の依頼までしてくださる方が居られるということは、本当にありがたいことです。

先日、依頼されていた原稿を持ってYさんをお伺いしたところ、
「この『車椅子』という表記、『車いす』という表記に直せないかい?」
と、修正の相談を受けました。
単純に表記を置き換えるだけの話ですから、それは面倒な話ではありません。
むしろ、その理由に興味を抱きました。

Yさんの回答は、しごく明快でした。
「俺たち、椅子に座りたくて乗ってるんじゃないんだ。移動のために乗ってるんだ。」
なるほど、確かにその通りです。

中には、何を屁理屈を捏ねているのだと思う向きもありましょう。
他愛の無さで定評のあるマイブラザー君が、爆弾発言を投下したことがあります。
「車いすのひとって、座ってるから楽だと思ってました!」
それでいて、Yさんをはじめとする周囲の人を一斉に爆笑の渦に巻き込む辺り、彼の持つ天性の才能かと思われます。
実際のところ、僕も試しに車いすに体験乗車してみたことがありますが、足が地に着かない恐怖を身にしみて痛感しました。
やはり、二本の足で立って移動できるのは何よりの幸福です。

車いすは、そもそも英語では「wheelchair」と表現します。
「wheel」は「ウィル」と発音するのですが、「ホイール」とも読め、つまりは車輪のことです。
直訳すれば「車つきの椅子」となります。
そもそも、なぜ椅子に車を取り付けたのでしょうか。
それは、歩行に困窮する人が自ら選んだものではありません。
立てないのであれば、座らせておけば良い。
座らせたまま移動できれば、移動も楽になる。
これらは、あくまでも介助する側の発想です。

歩行に困窮する人が望む本当の願いは、自らの意志で自由に移動できることです。
車のついた椅子に座ることが目的ではないのです。
歩行に困窮する理由は人によって違います。
自らの骨や筋肉で体重を支えられない人もありましょう。
関節を動かすことに支障がある人もありましょう。
神経的もしくは精神的な原因で運動できない人もありましょう。

車いすで自在に移動できるように設備を整えることが、バリアフリーなのではありません。
車いすに座らせることだけが解決の方法ではないのですから。


     * * *


かく言う僕自身、社会に存在する障壁に困窮している一人です。
今一番に付きまとっているのが、肩書きというやつです。
試しに、新聞なりニュース番組なりの事件報道を拾い読みしてみると良いです。
氏名、住所、年齢と並んで、肩書きが表記される場合がほとんどじゃないかと思います。

会社員、団体職員、自営業…この辺りなら、誰も気に留めないでしょう。
公務員や教員であれば、すぐにバッシングを企てるひとが現れます。
そして無職だと、まるで社会の落伍者という扱いです。
でも考えてもらいたいのが、それらが事件とどういう関係があるというのでしょうか。
たまたまそういう肩書きを持っていたというだけの話であり、本来は個人とは関係ないものです。
最近は、陰で国籍や民族名まで飛び交う始末です。
いよいよもって個人とは関係がないはずなのに、まるで代表者のような扱いです。

クレジットカードを作ったり、ローンやリースを組む時には、与信というものが必要となってきます。
お金を貸す側の立場とすれば、回収の見込みができる相手にだけ貸したいというのは道理ですから、与信という制度に異を唱えるつもりは毛頭ありません。
問題は、この与信の審査方法です。
まず最初に肩書きでふるいにかけられます。
次に年収から支払い能力を割り出します。

一見合理的のように思われますが、考えてみると随分と妙な話です。
問題なのは支払い能力であって、肩書きや年収ではないはずです。
世の中、お金はあっても払いたくないという人はゴマンといます。
一方で、貯金を切り崩してでも、毎回きちんと納める人も居ます。
架空の帳簿と、当人の遵法意識。
信用すべきは果たしてどちらでしょうか。

肩書きというものは、とても便利なものです。
名刺一枚で虎にもなれば龍にもなれます。
時には「虎の威を借る狐」にならなきゃいけない時だってあります。
実際、僕自身も何度お世話になったことやら。

でも肩書きが一人歩きするような社会であっては困ります。
まるで身分社会そのものです。
単純に身分だけで、その人の個性や能力を不当に貶めるようなことがあってはならないはずです。
ところが現実には、本人に対する評価が身分によって不当に色付けされています。
僕らはこれを偏見と呼んでいます。

今も社会のどこかで懸命に骨身を削って働いている人が居ます。
頑張っている人は、もちろん正当に評価されるべきです。
では、就労していない人は社会にとって不必要な人なのでしょうか。
そんなことはないはずです。
就労は、生きるための手段であって、生きるための目的ではありません。
人を死に追いやるような働き方が漫然と放置される現代社会において、就労をしないという選択肢を選ぶことが罪なのでしょうか。
むしろ、そういう人を見つけ出しては吊るし上げ、鬱憤を晴らすことでギリギリ維持されているような、非常に脆くて危うい社会だと感じています。

人の価値は、お金や地位で決まるのではありません。
一人でも必要としている人が居るのであれば、やはりその人は必要な存在なのです。
それを比較したり優劣をつけることは、全くの無意味です。
そうでもしないと保てないような価値なのであれば、既に本物ではないのです。

できることならば、
「今からお仕事ですか?」
という挨拶は、そろそろ終わりにしてほしいものです。
僕自身、毎日外出しようとする度に、この何気ない言葉が大きな障壁となって襲いかかってきています。
この言葉がなくなるだけでも、勇気を持って家から出かけられるようになる人は、きっと少なくないものと思います。
これこそが、本当の意味でのバリアフリーのひとつだと僕は考えています。

(※この記事へのコメントは、SNS上にて受け付けています。)

テーマ : 広汎性発達障害
ジャンル : 心と身体

プロフィール

かずや(京ヤワ)

Author:かずや(京ヤワ)
河津屋京柔/かずや(京ヤワ)は、京都府下在住の東方好きなMacユーザーです。
昔は電車小僧。今は鉄道おじさん。多分この先も?
発達障害の一つ、ASD(自閉症スペクトラム)であることを知ったのは、40歳手前のことでした。
開き直るほどタフじゃないけど、生きるのが随分と楽になりました。
毎週日曜日にキリスト教会に通う程度には信心深いようです。
ちまちまとパソコンでお絵描きしたりしていますが、最近は寡作気味です。

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